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 【天理大学百年史コラム(13)】

養徳橋と大望の像

本学構内にある「大望の像」と、かつて布留川に架けられていた養徳橋。
全く関連性がないように思える像と橋の意外な関係にせまります。


大望の像が設置される

「大望の像」は、南棟校舎の北側の入り口付近にある男性裸像です。この像は、1968(昭和43)年10月22日に設置されました。すでに設置から50年以上が経過している歴史ある像ですが、実は今の姿は、設置当初とは異なります。
設置された当時の天理時報2020号(1968年10月27日)には、「大望の像」の除幕式の様子が次のように書かれています。

「“大望”の造除幕式 奉告祭を記念して 青年会
天理大学南棟校舎前広場の一角に、高くそびえる神殿の屋根をきりっと見上げた筋肉隆々たる男性裸像が姿を表わした。
この像は、青年会が真柱継承奉告祭を記念して、かねてから三浜善直氏(26、山城京都分部属)に制作を依頼して完成を急いでいたもので、さる四月の青年会創立五十周年記念総会において、青年会長からあらきとうりょうの歩む道は、大きく望みに満ちた大望の道であると打出された意志をうけて、その名も“大望”と名づけられた。
像は体長二メートル三十センチ、重さ八百キロで、コンクリート及び砕石のとぎ出しでできている。
秋の日差しを浴びて、おやさとやかたを背にすくっと立った姿は、“大望”の名にふさわしいりりしさがある。
二十二日には、真柱を迎えて華かに除幕式が行なわれた。
制作者三浜善直氏談
「“大望”の意味にそうよう、大きな希望を持ち、高い時点をみつめて歩み出す力強い青年の姿を実現するように努力しました。
道は三代目真柱様を迎えて、新しい歩みを始めたわけですが、その中核となるべき青年層への促進材になればとも願っています」
なお三浜氏は、近く青年会の派遣でイタリアに留学することになっている。」

このように、「大望の像」は、同年10月25日におこなわれた天理教3代真柱の真柱継承奉告祭を記念して、天理教青年会が設置しました。天理教青年会とは、「天理青年を結集し、「あらきとうりよう」(あらきとうりょう)としての活動を促進することを目的とし、大正7年(1918)10月25日、天理教を世界に雄飛せしめる羽翼として創立された」会です。(『天理教事典』第三版)


1965(昭和40)年9月に4号棟(おやさとやかた南左第四棟)が竣工し、新しい教室と講堂兼大教室ができました。続いて、1967(昭和42)年10月に3号棟(おやさとやかた南左第三棟)が竣工し、大学事務局も南棟に移転しました。こうして、本学の機能が南棟校舎に集中し始めた頃に、大望の像は設置されました。
当時は、南棟校舎が建設されて間もないこともあり、樹木も少なく、像の周辺には遮るものがありません。現在は、周辺の樹木が生い茂り、高台にあがって近くまで行かなければ見えなくなっています。
1970(昭和45)年11月に開催された第22回天理大学祭のプログラムでは、像の写真が表紙に使われています。大学祭の統一テーマは「はばたき」で、その主旨に「はばたけ、大空へ。我々の最後の望みをかけて、この地上を強く踏みしめて、大空へ、はばたけ」とあり、希望を持って大空へはばたこうとする気持ちと、表紙を飾った「大望の像」の姿が重なるようにも感じます。

セメント製からブロンズ像へ

設置から11年後の1979(昭和54)年10月25日、大望の像は生まれ変わります。設置された当初はセメント製だったため、経年によるひびなどの損傷がみられました。そこで、設置当初の青年会本部委員会のメンバー等が中心になり、「ブロンズ大望像建立委員会事務局」を設置し、大望の像再建のための募金を呼びかけました。これに応えて、青年会本部新旧委員、設置当初の青年会創立五十周年記念の海外布教研修参加者、そして一般からも募金があり、新たにブロンズ製となって、同日除幕式がおこなわれました。
こうして、現在もブロンズ製の大望の像が、同じ場所に立っています。

養徳橋

さて、像の周囲には石造の装飾が並べられています。半円球の下に土台が付いたような形です。
実はこの石は、像の飾りとして造られたものではなく、養徳橋の欄干の一部として使われていた石をここへ移したものです。
かつて天理教教会本部と本学をつなぐ道の途中には、2本の橋がありました。
布留里橋と養徳橋です。これは、現在ある真南大橋や和楽橋とは別の橋です。
布留里橋は1927(昭和2)年10月に完成した橋で、1号棟のすぐ近くにありました。現在の杣之内第1体育館の西南隅あたりです。 
養徳橋は、鑵子山の北側にあり、布留川にかかっていた橋です。鑵子山は、現在の参考館のあたりにあった小高い丘陵地で、ここに1910(明治43)年1月、天理教養徳院の建物(木造瓦葺平屋)が建設されました。
鑵子山に登るには、布留川を越える必要があったため、ここに小さな橋が架けられていたようです。翌年には、養徳院の建物の西方に天理教校の校舎が建ちます。そして、1922(大正11)年まで、養徳院はこの場所にありましたが移転します。
このように、教会本部から養徳院がある鑵子山に渡るための橋だったので、養徳橋と名付けられたと考えられます。

石造の養徳橋が完成するのは、1929(昭和4)年です。欄干に使われた石には「昭和四年四月下澣」と刻んでありますが、『学校法人天理大学年表』には5月に竣工したとあります。
本学から教会本部へと向かうには、門柱を抜けて、布留里橋を渡り、鑵子山を迂回して養徳橋を渡って行くという道筋でした。
1966(昭和41)年1月の教祖八十年祭に向け、おやさとやかたなどの普請がおこなわれる中、天理駅や道路の普請もおこなわれます。この一環として、真南通りと呼ばれる教会本部から天理高校の前まで伸びる、まっすぐな道路が整備されます。
鑵子山を貫き、布留川は200メートルの区間に渡り、元の位置より約40メートル北へ移動させ、真南通りと交差する部分は暗渠になりました。この大規模な整備により、教会本部と本学の間の景観は大きく様変わりし、養徳橋は撤去されました。こうして姿を消した養徳橋ですが、30年以上にわたり本学の学生や先生方、そしてたくさんの人々が何度となく養徳橋を渡ったことでしょう。 

養徳橋の一部を本館中庭に設置

養徳橋の欄干は撤去されたのち、天理教造園課にて保管され、上部は再利用されました。
これが、大望の像の周囲の装飾として置かれている石です。残された下部は、造園課の石材置場にて長らく保管されていました。

養徳橋の欄干の下部分の石材が残されていることを知り、2021年7月に年史編纂委員が、石材置場に確認に行きました。そして、造園課のご協力のもと、2021年10月12日に眠っていた石を本学の本館中庭に設置することができました。90年以上にわたり風雨にさらされていたにもかかわらず、石には今なお「養徳橋」「やふとくはし」としっかり刻まれており、橋の欄干の役目を果たしてきたことがよくわかります。

ちなみに、大望の像の近くには、もうひとつ同じように再利用された石造物があります。それは、門柱です。養徳橋を渡り、鑵子山への階段を登ると、入り口に門柱が建てられていました。この門柱を移転したものが、現在の南棟校舎の北側入り口の門柱です。
このように、本学構内には、天理学園全体にわたる古くからの歴史を語る石造物が、様々な場所に溶け込んでいるのです。

参考文献
・「天理時報」1809号 1965年3月14日
・「天理時報」1817号 1965年5月9日
・「天理時報」1853号 1966年1月22日
・「天理時報」2020号 1968年10月27日
・「天理時報」2610号 1979年11月4日
・『天理養徳院五十年史』天理養徳院編集発行 1960年4月24日



 
(年史編纂室 吉村綾子)

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