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 【生涯学習】

《公開講座記録》【「大和学」への招待】郡山城天守台の調査

第3回 ●平成29年10月14日(土) 午後1:30
テーマ ●郡山城天守台の調査
          ●講師  十文字 健 大和郡山市教育委員会

内容

 平成25年から始まった天守台の調査によって、謎が多かった郡山城の実態が明らかになりつつある。調査成果をもとに遺跡としての郡山城の姿に迫りたい。

(県指定史跡 郡山城跡)
郡山城は丘陵端部に築かれた平山城で、天守台がある本丸を中心に内堀・中堀・外堀に囲まれた惣構えの構造をとる。現在みられる城郭の骨格は豊臣期に整ったとされる。城郭の中心部には堀や石垣が良好に残存し県史跡に指定されているが、発掘調査が少なく考古資料の蓄積はあまりない。

(天守台展望施設整備事業)
天守台は付櫓台が取り付く複合式の形態をとる。自然石を積み上げた石垣には「逆さ地蔵」や「伝・羅城門礎石」など特徴的な転用石材をみることができる。近年は孕み出しが進み、周辺への立入が制限されていた。そこで遺跡の保全と共有を目的に同事業が実施された。事業に伴って測量、土質調査、石材調査、史料調査など様々な調査をおこなったが、中でも大きな成果を得られたのが発掘調査である。

(天守台の発掘調査)
発掘調査では礎石を確認し、幻とも言われた天守が実在したことが初めて明らかになった。良好に残存する礎石からは天守1階の構造を推定することもできる。付櫓台では地階を構成する石垣を検出し、当初の入口の位置が明らかになった。これらの成果から、築城時は天守へは①付櫓台南面の入口から付櫓地階に入り、②付櫓の上階にあがり、③天守南側にある付櫓との連結部分から天守に入る、という動線だったことがわかる。また、石垣基底石の設置工法が天守台と付櫓台とで異なっていたことも判明。上部の構造によって石積み工法を使い分けたとみられ、当時の施工技術の実態がわかる。
天守礎石上面からは豊臣期大坂城と同笵の軒丸瓦や聚楽第に類例のある軒平瓦など16世紀末の瓦が出土し、天守の年代は豊臣期であることがわかった。周辺からは金箔瓦も出土し、天守を飾った屋瓦の絢爛な様相が判明した。

(石垣の解体)
石垣の解体範囲は必要最低限として、石材も原則同じものを使用した。全体の約13%にあたる209石が解体対象となった。解体に伴い天守台の内部構造が判明。天守台はすべて盛土でつくられ、石積み・土盛り・裏込流入を交互に繰り返したことで盛土と裏込の境が鋸歯状になっていた。これは築城時の状態が良好に残っていることを示している。盛土内には砕けた瓦が大量に含まれる部分があり、注意を引く。
内部には石垣を背面から押し出した状態が認められず、石積みだけが変形していたことがわかった。「逆石」や「団子積み」といった現代は避ける石の使い方、築石の割れ、間詰石の抜け落ちなど様々な要因が重なった結果の孕み出しと考えられた。しかしながら、約400年にわたって大きく損壊しなかった石垣を築いた当時の技術水準の高さは改めて評価されるべきだろう。

(郡山城の天守台)
多くの調査の結果、郡山城の天守台は豊臣期の遺構であり、残存状態も良好であることが明らかになった。同時期の天守に関わる遺構は全国的にも資料が限られており、城郭の構造や築城技術の変遷を考察する上で重要な遺構である。出土資料の分析がまだ途上だが、礎石の設置年代は文禄〜慶長初頭に限定できる可能性が高くなってきた。この時期は秀保の名護屋からの帰陣や伏見慶長の大地震など築城の画期となるような出来事が続く。今後も慎重に検討を進めて年代の特定につとめたい。天守は関ヶ原の戦い後に解体されたと考えられる。解体後の遺構の状況からは天守なき後の天守台が江戸時代を通じて丁寧に維持管理されたことがわかるが、城郭の中で天守台がどう位置付けられていたのかも興味深い問題である。天守台の分析をさらに進めることで、郡山城の変遷や織豊期から近世にかけての城造りの実態が明らかになることが期待できる。

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