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 【生涯学習】

《公開講座記録》【「大和学」への招待】秀長以後:郡山の近世が始まった

第2回 ●平成29年10月7日(土) 午後1:30
テーマ ●秀長以後:郡山の近世が始まった
          ●講師  幡鎌一弘 歴史文化学科教授

内容

 17世紀前半における上方の大名配置を見渡してみると、譜代大名最大の30万石の近江国彦根藩(井伊家)と、15万石の譜代大名である播磨国姫路藩・大和国郡山藩が、政治・経済の中心である京・大坂の2大都市を取り囲むように配置されている。このこと一つをとってみても、郡山は江戸幕府の上方支配、とりわけ軍事的に重要なポジションにあったことがうかがえる。今回は、そのようなまなざしで郡山の近世史を検討してみた。
 
 そもそも、大和国の近世の扉を開いた豊臣秀長は、天正13年(1585)に姫路から郡山へやってきた。播磨国・大和国は、大坂を拠点とする豊臣秀吉にとって重要な領国だった。

   秀長は、入部後すぐに郡山・松山・高取の三城体制を作り、寺社に対して保護と統制を織り交ぜて支配し、自らの権力を高めていった。城下町を整備するために力を尽くし、寺社の礎石までもかき集めて城を築き、家臣屋敷を整備し、住民組織として箱本制度を導入した。多武峰大織冠鎌足公を郡山に移した最初の思いは、都市に不可欠な要素としての宗教性を求めたからだったと思われる(あわせて秀長の病気祈祷の意味を持つようになる)。堺と奈良の間の流通線上の地の利を生かして、市の発達を促した。奈良で長年培われた文化も郡山に移してきた。天正16年(1588)、毛利輝元一行を郡山に迎えたとき、奈良の町人・春日社祢宜の演じる能によって接待したことなどは、きわめてよい例である。
 
 羽柴秀保時代も秀長の諸政策は引き継がれた。増田長盛が大和に入ると、支配を固めた秀長・秀保旧臣との関係が難しくなるが、「国守護」という立場で検地や行政を行った。増田長盛支配期に起こった慶長伏見地震で郡山城の天主が崩壊した可能性があるが、この破損がどの程度で、長盛がどのように対応したかはよくわかっていない。
 
 関ケ原合戦後、西軍側の大名は改易され、大和国には福島・織田など東軍の豊臣・織田系の大名・旗本領が設定された。大和国は豊臣方・徳川方の領地が交錯して、双方の緩衝地のようになった。城を受け取るため、藤堂高虎・本多正純が郡山に来たが、その後、城主は置かれなかった。豊臣方との緊張を避ける意味があったのだろう。大和国の国奉行だった大久保長安が郡山周辺の幕領を管理しており、郡山町との関係も継続していた。その一方、豊臣方に近い勢力が郡山にいたようであり、筒井正次が郡山城を預かるようになったにもかかわらず、大坂冬の陣の際、徳川家康は郡山を素通りし、小堀政一に郡山の様子を内偵させている。
 
 慶長20年(1615)、大坂夏の陣の時、水野勝成は大和国の大名・旗本の組頭として道明寺の戦いに勝ち、戦功によって郡山城を与えられた。大阪の陣後、平時へスライドしていく際、郡山を水野勝成に与えて大和国に影響力を及ぼすことに、大きな意味があった。
 
 郡山城は、水野・松平忠明によって整備されていった。元和5年(1619)、徳川秀忠が尼崎城に続いて郡山城を検分したのは、城作りと何らかの関係があっただろう。寛永6年(1629)に松平忠明がはじめた2割半無地高増政策と同じことは、寛永8年(1631)に岸和田藩松平康重も行っており、両者とも城と城下の整備は重要な課題だった。無地高増政策は、慶長6年に播磨国で池田輝政が行ったのが最初で、これも姫路城の築城と関係する。池田家のあと姫路に入った本多忠政もその政策を引き継ぎ、寛永16年(1639)、松平忠明と本多政勝が姫路と郡山の領主を交代したのちも、無地高増政策は本多・松平両家の政策として継続していくことになった。
 

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