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 【生涯学習】

《公開講座記録》【「大和学」への招待】筒井順慶と松永久秀

第1回 ●平成29年9月30日(土) 午後1:30
テーマ ●筒井順慶と松永久秀
          ●講師  天野忠幸 歴史文化学科准教授

内容

  
戦国時代の大和を代表する二人のイメージ
鎌倉・室町時代を通じて、大和を代表する権力は、興福寺であった。しかし、戦国時代末期、武力で大和を平定しようとする者が現れる。それが興福寺の下に結集する大和武士の棟梁である筒井順慶と、足利将軍を京都より追放して畿内の覇権を握った三好長慶の重臣である松永久秀であった。
しかし、順慶は明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の戦いで、洞ヶ峠に陣取り、日和見的な態度に終始したという逸話がある。また、久秀も、主家の三好一族を謀殺し、将軍足利義輝を暗殺するだけでなく、東大寺大仏殿を焼討にしたとされる。
こうした不名誉な逸話は江戸時代に創作され、実際には証拠がなかったり、戦国時代の古文書を見ると、明らかに否定できたりする。そうした両者の実像を見ていく。

順慶と久秀はなぜ戦ったのか
永禄二年(一五五九)、久秀は大和に侵攻する。その理由は従来、単なる領土的野心としか考えられてこなかった。当時の順慶は若年のため、河内の畠山氏、特に重臣の安見宗房との連携強化により、その危機を乗り越えようとしていた。ところが、そうした時に、三好氏と安見氏が対立したため、順慶も巻き込まれることになったのが実像だ。
久秀の大和入国は、大きな衝撃を与えた。多くの筒井家の家臣が順慶を見放し、久秀に寝返ったのだ。それだけでなく、興福寺までもが、久秀を大和武士の棟梁と認めてしまった。順慶にとって、自らの権力基盤を根こそぎ奪い取った久秀は、絶対に倒さねばならない相手となった。

京都・中央政権との関係
三好氏が京都を支配している時は、久秀が圧倒的優位に立った。しかし、三好氏が内紛を起こすと、順慶は三好三人衆と、久秀は足利義昭や織田信長と同盟を結んだ。久秀は義昭と信長の上洛を援護し、娘を信長の息子と結婚させるため遣わした。それに対し、順慶は信長に降伏すら認められず、厳しい立場に追い込まれた。
そうした状況が急展開するのが、元亀二年(一五七一)であった。義昭は自分の部下を増やそうと独断で順慶を味方にした。これに怒った久秀は義昭や信長から離反する。順慶は中央政権との繋がりができた千載一遇の好機を生かし、辰市の戦いで久秀を破って大勝利を収めた。
その後、義昭と信長が対立する中で、久秀は居城の多聞山城を明け渡すという捨て身の条件を提示し、信長も服属を認めざるを得なくなった。一方、順慶は信長に厚遇され、縁戚関係を結び、やがては大和の支配を任された。こうした流れが強まる中で、久秀は信長に背き、信貴山城に籠城するが、敗れて自害した。
信長は明智光秀らの大軍を大和へ派遣し、その軍事力を背景に検地と破城を断行して、順慶を支援していくことになる。

城郭配置から見た大和支配
久秀は奈良に多聞山城を築き、信貴山城(平群町)、沢城(宇陀市)、筒井城(大和郡山市)、十市城(橿原市)などに城主を派遣して支配した。特に多聞山城は高層建築、白壁の塀、黒瓦、障壁画などの存在が、キリスト教宣教師の史料だけでなく、『柳生文書』でも確認されており、近世的な城郭の先駆けとなった。作事を行った彫刻師や絵師は安土城にも動員されており、影響を与えた。多聞山城は信長によって解体されるが、文禄三年(一五九四)に豊臣秀吉に再建を指示されるなど、後世にも影響を及ぼした。
それに対して、順慶は信長より郡山城を与えられる一方、筒井城も含め他の城は破壊するよう指示されている。当初、筒井城には多聞山城の石が運ばれたが、低湿地で地盤が弱く、近世的な城郭への改修は難しかったようだ。そのため、郡山が大和一国の支配拠点と定められた。

おわりに
戦国末期の大和は、侵略者の松永久秀と守護者の筒井順慶という二項対立的な視点では割り切れない。両者は中央政権の強い影響を受ける点で、共通の課題を抱えており、中央政権に作られた大和国主という面を有していた。しかし、正面から奈良に対抗する久秀に対して、奈良に代わる新都心をつくる順慶という枠組みは、奈良奉行と郡山藩という形で江戸時代に受け継がれていく。


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