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 【生涯学習】

《公開講座記録》【大和学への招待】江戸時代の奈良町と名産

第1回 ●平成28年10月8日(土) 午後1:30
テーマ ●江戸時代の奈良町と名産
          ●講師 谷山正道 歴史文化学科教授

内容

 はじめに
「江戸時代の奈良町は、どのような性格を帯びた都市であり、そのあり方にはどのような変化が生じるようになったのか」という問題について、奈良晒をはじめとする当地の名産の盛衰や、観光都市化という側面に光をあてながら、話しました。その骨子を以下に記しておきます。

1 江戸時代の奈良町の性格
○ 絵図に見える奈良町の様子
※「御奉行所」、「春日社」「東大寺」「興福寺」「元興寺」をはじめとする寺社、数多くの「丁」の存在。
※ 安永7年(1778)「和州南都之図」には、「八景」「陵墓」「名所并名木」「土産」も記載され、天保15年(1844)「和州奈良之図」には、「南都七大寺」「八景」や主要な年中行事・鹿も記載されている。
※ 元禄11年(1698)の調査によれば、奈良町の範囲は、北は奈良坂京口から南は椚口までの1里4町50間、東は市ノ井から西は西三条口までの26町44間余で、惣町数は205町、惣人口は3万5369人(うち町方人口は2万6420人)となっていた。

○ 政治都市
※ 奈良奉行所の存在・・・慶長18年(1613)に中坊秀政を「南都奉行」に起用、奉行所の開設、与力・同心の設置、財政的保障(奈良廻り8か村)、奈良町の支配、17世紀後半には大和一国の行政・裁判をとり行う幕府の地方行政機関として確立。
※ 奈良代官所も一時存在・・・寛文4年(1664)から元文2年(1737)まで、大和国内の幕領を支配。

○ 宗教都市
※ 豊臣政権の寺社政策・・・興福寺をはじめとする寺社権門の俗権を削ぎ落とし、政教分離をはかって、近世的な寺社に衣替えさせようとする(→「寺社王国」の終焉)。
※ 徳川政権による由緒ある寺社に対する財政的基盤の保障(朱印地の付与)と宗教活動の展開(年中行事化)。

○ 産業都市
※ 大和国内での商取引の中心地、遠隔地取引の拠点(豊臣政権下での苦況を乗り越える)。
※ 製造業・・・寺院から町方の産業へ(酒造や製墨など)。
※ 延享5年(1748)『奈良曝布古今俚諺集』(村井古道)の記載・・・「慶長年前
までは、奈良の町屋今のごとき町並に非ず、工商家居奈良七郷とて、各農民或は興福寺、元興寺、東大寺、春日社の奴婢、被官、又は寺侍、役人等の住居にして、工商の家は、甲冑細工人、奈良刀、或は酒家、墨師等多くして、生布、晒布、青苧、絈纑の商家は、希々ならではなかりしと也、(中略)兎角当代流布の曝布は、慶長・寛永年中より織屋商売人さかんになりし也」。

○ 観光都市
※ 名所案内記や絵図・・・17世紀の半ば以降に続々と刊行(観光都市化の進行とパラレル)。

2 奈良町の名産の盛衰
○ 地誌に記された名産
※ 元禄15年(1702)『南都名所記』の記載・・・「ぐそく(具足)」「さらし(晒)」「ゆえんすみ(油煙墨)」「さけ(酒)」「もんじゅ四郎小がたな(文殊四郎小刀)」「まんぢう(饅頭)」「西大寺ほうしんたん(豊心丹)」「うちは(団扇)」「ほっけ寺つちいぬ(法華寺土犬)」「右の外めいぶつおほし(名物多し)」。
※ 享保21年(1736)『大和志』の記載・・・「暦本」「甲冑」「刀剱」「蹈鐙(あぶみ)」「漂布(さらし)」「団扇(うちは)」「酒」「糟瓜(ならづけ)」、「饅頭」「藺履」「木綿韈(もめんたび)」「法論豆醤(ほろみそ)」「豉油(いろり)」「豆腐」。

○ 主要な名産の盛衰
※ 奈良晒・・・高級麻織物(武士や町人の礼服などに使用)、青苧を東北地方より購入し「苧かせ」・織布をして晒加工を行う、幕府による保護もあり生産が大きく進展し「南都随一」の産業に、最盛期(17世紀中頃から18世紀初めにかけて)の年産額は30~40万疋(60~80万反)、「当町中十の物九つは布一色にて渡世仕り候、妻子は布かせぎ致し、下々の駕籠かき日用取り申す者共の女には、布おらせ或は苧うみ渡世仕り候」(玉井定時『楊麻止名勝志』)、「奈良晒、麻の最上といふは南都也」(享保17年〔1732〕『万金産業袋』)、他国における布生産の進展などの影響により享保期を境に衰退に向かうようになった。
※ 奈良酒・・・濁酒から諸白造りへ、僧坊酒から町方での造酒への転換(安土桃山時代)、轟く名声=「和州南都造酒第一トナス、而シテ摂州之伊丹、鴻池、池田、富田之ニ次グ」(元禄8年〔1695〕『本朝食鑑』)、酒屋数・酒造高の減少=「古の酒株は奈良中に壱万六千石程御座候間、酒屋百拾軒余御座候得共、ぜんぜんに減少仕、只今は酒屋六拾軒程ニ罷成、酒もわずかに六千石ならでは造り申さず候」(元禄11年〔1698〕の奈良町惣酒屋口上書)、他国における酒造業の進展がその主な原因、なお「奈良漬」や「霰(あられ)酒」(酒のなかに米麹を浮かせ味醂酒の一種)も当地の名産。
※ 奈良墨・・・松煙墨から油煙墨へ(室町時代)、寺院抱えの墨師から町方の墨屋への製造の担い手の移行(安土桃山時代)、墨の需要が高まる17世紀の後半以降に製造が進展、18世紀初頭には38軒の墨屋が存在(うち3軒は幕府にも墨を納める「御墨屋」)、18世紀には古梅園の松井元泰が墨の研究と改良に心血を注ぎ『古梅園墨譜』『古梅園墨談』を著す、墨屋数は文化14年〔1817〕の墨屋組合結成時には57軒、その後幕末にかけて減少傾向を示すようになったが製造はそう大きく後退することなく明治維新を迎えた。
※ 武具(具足や刀剣など)・・・江戸初期までは盛んに製造され、将軍の御用具足師となった岩井与左衛門のような名手も存在していたが、その後、平和な時代の到来により、(小刀をのぞいて)製造は衰退するに至った。

○ 幕末期奈良奉行所による特産物の調査
※ 安政3年(1857)の「奈良町」および大和国「在方」の各特産物の販売額が判明。
※「奈良町」の第1位は「奈良晒縞布類」(販売高14万4325反、代銀3771貫893匁余)、第2位は「油煙墨」(販売高5546籠、代銀1203貫803匁余)、第3位は「酒」(販売高5646石余、代銀660貫415匁余)で、「下駄草履皮沓類」「奈良刀打物類」「筆」「奈良綿入足袋類」「鋳物鍋釜類」「奈良団扇」「膠」がこれに続く。

3 観光の名所となった奈良
○ 旅の盛行と遊覧のスポットとなった奈良
※ 数多くの由緒ある寺社や名所旧跡の存在・・・「当地之儀者旧都之儀ニ付、神社仏閣旧跡等有之、殊西国より伊勢参宮之道筋ニ有之候間、当表参詣旁諸国より相応ニ入込人も有之」(天保15年〔1844〕「(京都所司代酒井忠義宛奈良奉行池田頼方伺書)」)。
※ 名所案内記や絵図の刊行・・・寛文6年(1666)「和州南都之図」、延宝3年(1
675)『南都名所集』、同6年(1678)『奈良名所八重桜』をはじめ、17世紀の半ば以降に続々と刊行。大坂や京都の書肆のほか、「南都大仏前 絵図屋庄八」や「陰陽町 山村重三郎」らも活動。
※ 名所案内人の活動・・・元禄5年(1692)の大仏開眼供養時にはその存在が確認され、嘉永元年(1848)には「七十人余」を数えた。猿沢池と春日社・東大寺・興福寺を半日で案内するのが基本パターン。
※ 旅籠屋・土産物屋の繁昌・・・旅籠屋は樽井・今御門・押上・今小路町に存在(『奈良曝』)。

○ 東大寺大仏修復・大仏殿再建事業の展開と奈良町
※ 露座の大仏と公慶上人・・・貞享元年(1684)から勧進活動を開始。
※ 勧進による大仏修復の実現・・・元禄5年(1692)に開眼供養。
※ 幕府のサポートによる大仏殿再建の成就・・・宝永6年(1709)に落慶供養。※ 奈良町への経済効果・・・「大仏殿再建記」の記載など。

おわりに
奈良町は、東大寺の大仏の修復と大仏殿の再建事業が成就した頃、大きな転換期を迎えるようになっていました。それまで当地の経済を支えていた産業(武具に続いて奈良酒、さらには「南都随一」の産業となっていた奈良晒の生産までも)が、衰退傾向を示すようになったのです。その一方で、旅の盛行に伴って当地を訪れる人々が増加するようになり、観光都市奈良の礎が形成されるとともに、観光が当地の経済を支える重要な産業の一つとなるに至った点が注目されます。

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