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 【生涯学習】

《公開講座記録》【大和学への招待】ぜんぶ、茶粥のせい

第3回 ●平成28年10月22日(土) 午後1:30
テーマ ●ぜんぶ、茶粥のせい
          ●講師  黒岩康博 歴史文化学科講師

内容

 昭和初期の食生活を記録したという『日本の食生活全集29 聞き書奈良の食事』(1992年)は、その冒頭に「国のまほろば 大和の 古きゆかしき 食と味」という詞とともに、茶粥を炊く写真を掲げている。俗に「大和の茶粥、京の白かゆ、河内のどろ食い」と呼ばれた茶粥(食)は、西日本・畿内近国(特に奈良・和歌山県)に現在も残る食習慣であるが、大正期以降は長らく「体育上、教育上」の問題とされたという。このギャップについて、主に奈良県を舞台として展開された、茶粥を取り巻く言説から考えてみることにする。

まず明治・大正期の奈良県の食生活を見てみると、明治13年(1880)9月の調査「人民常食類比例」によれば、奈良県は米65%、麦33%と共に全国平均(米53%、麦27%、雑穀14%)より高い米・麦の比率を示している。大正7年(1918)の「主食物調査」では、奈良県は「米飯・麦飯ガ常食、芋粥・小豆粥モ食ウ」(市部・市街地郡部)「朝夕粥ヲ食シ、飯ハ昼ノミ。粥ハ芋・小豆ヲ混入ス」(村落部)と、全域で粥食が見られるが、そのことへの評価が特筆されていた訳ではなかった(奈良県では、茶粥もただの「オカイサン」と呼ぶことが多い)。

おそらく最初に奈良県において茶粥に関心を持ち、問題視したのは教育界であると思われる。大正9年奈良県師範学校教諭の高田十郎が行った習俗調査では、朝夕(多いところでは昼も)に食される茶粥は「コノ地方ノ生活趣味ノ中心」であり、おかずを作るのは昼食の時だけとされている。翌年の雑誌『奈良県教育』に載せられた「常食慣例状況調」でも、殊に吉野郡を中心とする山間部では茶粥が食事の主軸となっていたことが明らかにされており、そうした状況を受けて開かれた同年の奈良県女教員大会では、家庭生活の改善策として、「食物に関する欠陥の矯正」の項目で「粥全廃すること」が提案されている。

昭和に入り、昭和5・6年(1930・31)度に郷土研究施設費が師範学校に交付され、各地の師範学校に郷土室が設置されて郷土教育運動が始まると、現在の「総合学習」を彷彿とさせる「綜合郷土研究」の中で郷土料理(山梨県のほうとうなど)の評価も高まっていったが、茶粥への逆風は止まなかった。同11年の教育努力点、翌12年の教育是の1つとして、県は「体位の向上」を掲げ、栄養食の奨励や学校給食の導入を検討しているが、その過程で低体位の原因は明らかでないとしながらも、「お粥に起因するか、営養摂取の無関心にあるか」と、茶粥を中心とした粥食が元凶であるかのようにほのめかしている。

これら2つの県の教育方針のうち、特に12年の教育是では低体位は「県民性」とされ、その犯人探しが企図されたため、「元来、大和から偉人が出ないと言うが、或いわお粥腹の加減かも知れない」(宮武正道『奈良茶粥』、昭和7年)といった俗説をも生む原因となった。このようにして、現在も継続する奈良県の茶粥という食習慣をめぐっては、大正期に教育者により課題・問題が見出され、昭和戦前期の郷土教育運動の高まりを背景に、「郷土食」と「県民性」との因果関係が特にマイナス面において想起されるようになり、はては「大和に偉人なし」は茶粥のせいであるという、安易な俗論が生まれることとなった。戦時中は「節米メニュー」として間違った持ち上げられ方をすることもあった(実際には米よりもおかずの節約につながる)が、これらの紆余曲折を経た茶粥の現在は、今も常食とする一部の地域・世代を除いては、「美味」という看板を売りにした「郷土食」という名の嗜好品という位置に落ち着いているように見える。さて茶粥の未来はどのようなものになるであろうか。こうした来し方を踏まえつつ見届けて行きたいものである。

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