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 【生涯学習】

《公開講座記録》【大和学への招待】鹿の角切り始まる!

第2回 ●平成28年10月15日(土) 午後1:30
テーマ ●鹿の角切り始まる!
          ●講師  幡鎌一弘 おやさと研究所教授

内容

「奈良のシカ」は、平成28年、奈良公園内でおおよそ1,500頭ほど生息している(鹿苑保護数を含む)。野犬などの天敵が消え、日本全国で増えすぎた鹿は、一般的には害獣扱いされているが、「奈良のシカ」は昭和32年に史跡名勝天然記念物(天然記念物)の指定を受けた文化財で、たいへん恵まれた特殊な存在である。しかし、あまり知られていないが、獣害という点では奈良公園周辺でもまったく同じ状況にあり、農業被害があるだけでなく、世界遺産の春日山原生林をも荒らしているという。

本年3月、奈良県は長年の方針を見直し、保護する地域、捕獲を可能にする地域、その中間地域というおおよそ3段階に区分けして、あらたな対策を講じることにした。
この対策は実質的に江戸時代の状況に近いと、私は思う。江戸時代には、厳密な保護地域は奈良町であり周囲には鹿垣があった。若草山などの東側の藤堂藩領は、奈良奉行所や興福寺の力が及ばず、「野鹿」として扱われていた(捕獲されていた)。奈良町の南北の地域、川上村や白毫寺村といった幕領がグレーゾーンで、鹿殺しの問題がしばしば発生した地域だが、実際には密猟は黙認されていたと思われる。

奈良の鹿は、春日社の創建神話の中で語られ、「神鹿」という宗教的象徴であることが強調されているが、実質的にそのようになったのは鎌倉時代のことである。その後、中世の奈良では神鹿殺害人は死罪とされたものの、近世にはその実態はほぼなくなった。それに反して、神鹿殺害人の処刑は一種の悲劇として、新たな都市伝説となって語り継がれた。

これまで私たちは、実態と言説とを混同し、鹿と人間の関係を見誤ってきたように思う。両者の関係の歴史化は、これから進むべき道を考える上での基本作業だろう。
現在まで奈良に鹿が残りえたのは、春日社や興福寺の信仰の力ではなく、松永久秀以来、織田政権(柴田勝家・明智光秀)、豊臣政権、徳川政権が、曲がりなりにも鹿の保護を認めたからである。それは、奈良における興福寺の警察権や行政権が奪われていく過程そのものである。わずかに残ったのが、統一政権の全国支配とはおよそ無縁の鹿の保護だけだった。さらに割り切っていえば、徳川家康がそれまでの政策を引き継がず、鹿の保護をうたわなかったら、事態は大きく変わっていただろう。江戸時代の鹿をめぐっては、中世以来の伝統と家康の祖法の二つが混じったものになっていた。もちろん、幕府(奈良奉行)にとって大きな意味を持つのは後者である。

17世紀後半、家康時代のままでは幕政は立ち行かなくなり、畿内の行政組織も見直され、そこに勤める幕臣(官僚)の資質も問われ始めた。一方奈良町は、酒造・晒・観光によって人口が増えて町場が拡大し、景観は大きく変わった。
このころ奈良奉行に任ぜられた溝口信勝によって、本格的な都市政策が始まった。具体的には、家職取調(住人把握)、非人頭設置(治安対策)、薪能鞍懸売買権の貧困民への付与(都市下層対策)である。そして、秋になると気の荒くなった牡鹿の角が危険なため、住人・旅行者の安全対策として行われたのが鹿の角切りなのである。

こうして始まった鹿の角切りも、やがて観光行事化していく。いつどのようにして、人びとの娯楽化したかはまだ明らかにはなっていないが、奈良の秋の風物詩となった。明治維新以後、鹿を守る言説として神鹿がもちだされる一方、角切りは奈良観光の目玉の一つであり続けた。なにより、「奈良のシカ」は奈良になくてならない究極のゆるキャラで、奈良の人びとにとって鹿との共存は避けて通れない。私たちは歴史に学び、知恵を絞り、新たな道を模索しなければならないのである。

【参考文献】 
奈良公園史編集委員会編 1982『奈良公園史』、奈良県。
奈良の鹿愛護会監修 2010『奈良の鹿:「鹿の国」の初めての本』、京阪奈情報教育出版。
幡鎌一弘 2014『寺社史料と近世社会』、法蔵館。
幡鎌一弘 2012「鹿の角切りと奈良の町」、『研究紀要』17、奈良県立同和問題関係資料センター。

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