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 【生涯学習】

《公開講座記録》【大和学への招待】『大和國古墳墓取調書』と山の辺の古墳群

第1回 ● 平成26年4月5日(土) 午後1:30
テーマ ● 『大和國古墳墓取調書』と山の辺の古墳群 
講 師 ●  桑原 久男 歴史文化学科教授

内容

奈良盆地の東南部、天理市から桜井市にかけての山の辺地域には、3世紀から7世紀にかけて営まれた古墳群が連なるように分布している。これらの古墳群は、日本列島における国家形成の歴史を解明する最重要の資料であると同時に、奈良県が全国に誇る重要な文化遺産にもなっている。

この山の辺地域の古墳群がこれまでどのように調査研究され、顕彰・保存され、現状が導かれてきたのか、筆者は次の8期に分けて理解している。戦前までの流れを見ると、第1期(幕末~明治初期)には、山陵調査が行われ、陵墓の治定と平行して、修陵、遙拝所設置などが行われた。行燈山古墳、渋谷向山古墳、西殿塚古墳、箸墓古墳は、その際に整備された姿を今に伝えている。第2期(明治期)は、太政官通達により古墳の乱掘や盗掘が禁止され、古墳の組織的な所在調査、一覧作成が行われた。『大和國古墳墓取調書』がまさにそれにあたる。第3期(大正~昭和はじめ)には、1919年(大正8年)、史蹟名称天然記念物法が制定公布され、古墳の考古学的調査も開始された。第4期(戦中期)は、古墳の受難期であり、山の辺地域の古墳の幾つかには、空襲に備えた高射砲台が設置された。

戦後初期の第5期(1965年頃まで)は、戦中に荒らされた古墳の後始末のため、桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳、櫛山古墳といった古墳の発掘調査が行われた第1次発掘時代である。また県道敷設のため、天神山古墳が半壊し、東大寺山古墳の発掘調査では「中平」銘の鉄刀など数々の副葬品が出土した。この時期における各発掘調査は、この地域の古墳の重要性を如実に物語るものであり、第6期(1966~80年代)は、主要古墳の発掘調査は抑制され、各古墳の測量調査などの基礎調査が進展した。また、緑地や景観、歴史的風土の保全などの取り組みも進められた。第7期(1990年代)は、この地域における古墳の第2次大発掘時代であり、奈良県が主導して、中山大塚古墳、下池山古墳、黒塚古墳、ホケノ山古墳の埋葬施設が発掘調査され、とくに黒塚古墳から出土した33枚の三角縁神獣鏡は注目を集め、以来、「卑弥呼の里」が天理市のキャッチフレーズとなった。第8期(2000年~現在)は、古墳群の保存と活用をめぐる模索の時代である。オオヤマト古墳群の北端部を貫通する県道建設計画をめぐって古墳群の保存運動が展開し、その後、下池山古墳、ノムギ古墳、中山大塚古墳が新たに国史跡に指定された。

このような山の辺地域の古墳群の調査研究と保存活用の歴史を振り返るとき、基礎資料として非常に重要なのが第2期の取り組みを象徴する『大和國古墳墓取調書』である。明治26年3月に成ったこの文書は、奈良県属であった野淵龍潜の手になる行政文書である。第1期(幕末期)における山稜調査では、取り扱う地域も古墳も限られていたが、『取調書』では、奈良県全域が対象となり、古墳墓全体の組織的な悉皆調査がなされている。4回にわたる古墳墓の調査が、各墳墓の現状を絵図で示した『見取図』4冊、その概要を罫紙に手写した『取調書』3冊を合わせた計7冊として纏められ、原本が奈良県社寺兵事課に保管されていた。これを故末永雅雄博士が昭和初年に見いだし、さらに、1985年(昭和60年)、印影本が出版されたことで広く学界に知られることになったものである。各墳墓は、所在地と地目、官有地・民有地の別、「甲」(陵墓・皇族以上の墓所)、「乙」(貴人の墓)、「丙」(一般の塚)といった区別がなされている。貴人の墓所として古墳を扱う視点からの調査ではあったが、この文献は、現在も、奈良県で古墳を調査研究する際には、まず最初に目を通さなければならない最重要の文献であり、また、今後、各古墳をどのように保存活用するべきかを考える場合にも大事なヒントを与え続けてくれることは間違いない。
 

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