文学の中のアメリカ生活誌(40)

Lynching(私刑)この語はバージニア州の治安判事 Willianm Lynch大佐に由来する。彼は独立戦争の頃(1870)、ヨークタウンの戦い(1781)で降伏したイギリスの将軍Charles Cornwallisとその部下たちを、正規の手続を踏まずに厳しい処罰を行った。すなわち通常の法廷のように陪審員を定めず、3人の部下に対して10年の重労働の刑を言い渡した後、Cornwallis大佐に次のような判決を下した。「貴殿を見せしめのために公共広場に連れて行き、軍服をはぎとり、30回の鞭打ちの刑にする」。当時の政府は麻痺状態だったため、この不法行為はすぐにバージニア以外の地域でも広がり、やがてLynch law(リンチ法)と呼ばれ、その後lynchといわれるようになった。1830年代になると、lynchingという言葉は一般語になり、体一面に煮えたぎるタールをぬりまくり、鳥の羽をくっつけ、重い場合は鞭打ちの刑の場合もあった。Nathaniel HawthorneのMy Kinsman, Major Molineaux(1832)には田舎から都会に出てきた主人公Robinが縁者Molineauxのリンチの行列を見るシーンがこう描かれている。「(彼の)身体には熱したタールを塗られ、鳥の羽が一面にくっつけられていた」。

 詩人Walt Whitmanは文学的生涯に乗りだす前、一時ロングアイランドのいくつかの村の小学校で教えたことがあった。その頃の小学校の多くの教師は教える者としての資質に欠けていて、ただ白樺でつくった鞭や棒を使って規律を躾つけることしか考えていなかった。Whitmanはこのような学校の厳しい管理体制に反対の声をあげ、教職には、育ちのよい、立派な教育を受けた女性を選ぶことが学校改革を進める手っ取り早い方法だ、と主張した。彼が優しさのある学校運営の必要性をどれほど痛感していたかは、たとえば、若い頃の短編小説Death in the School-Room(1841)によってもうかがうことができる。これは田舎の小学校の教師Lugareが、母と2人と暮らしている心の病を患っている少年Tim Bakerを近くの畑から果物を盗んだ犯人と思い込み、彼の背中を力一杯鞭で打ち白状させようとする物語だ。いくら打ってもTimは頭をかかえたままじっとしているので、彼は不審に思い、顔を近ずけてみると少年はすでに死んでいるのだ。だからといって、Whitmanが模範的な教師というわけでなかった。もう少し正確にいうと、彼はけしからぬ行為をしたとして村人にリンチされたことがあった。彼がロングアイランドの北東の端に位置する漁村サウスオールドの小学校で教えていた頃のことである。当時の習わしに従って、彼は安月給の埋め合わせにあちこちの生徒の家庭に泊まっていた。そして泊まった時には、屋根裏で子供たちと一緒に眠った。ところがある日曜日(1841年1月3日)、村の牧師Ralph Smithはこともあろうに教会で彼をソドムだと公然と非難した。怒った村人らは、近くの家の屋根裏に隠れていたWhitmanの体中に熱したタールを塗りつけて、鳥の羽をまぶし、手足を縛って村をかつぎ回した後、村はずれの沼沢にほうりなげたいう。 

 lynchがタールや羽の刑や鞭打ちから憎しみによる絞り首の刑という現在の意味に変わるのは、南北戦争後のことである。ニューヨークでも黒人が木に吊るされ絞り首にされた事例はあるが、南部はこの時期のどの地域にもまして黒人に対してこの刑を適用した。記録によれば、1868年からわずか3年の間に、南部の白人たちは400人もの黒人を、道徳心を欠いているとか、自分たちを侮辱したとかいうかってな理由で火あぶりや吊るし首などにした。necktie party(1830年代)は白人の無法者に対するリンチを意味する西部地帯の俗語である。

Peanuts(ピーナツ)アメリカ的な食べ物といえば、まずピーナツが浮かぶ。パーテイーのつまみとしてのほか、野球場やサーカスでもスナックとして好んで食べられる。では、アメリカではピーナツはいつどのようにして栽培されたのだろうか。ピーナツは紀元前2500年の頃からアメリカ大陸で栽培されていた。古代のペルー人によってである。もっとのちの時代になると、インカ人の墓の中にピーナツやトーモロコシの入った袋が発見されている。紀元前500年には、ピーナツは原産地の南アメリカからメキシコとカリブ諸島へと伝わった。古代メキシコでは薬として、カリブ諸島においては日々の食べ物として重要な役割を果たしていた。しかし、南アメリカを征服したスペイン人とポルトガル人は、この新しい食材に興味を示さなかった。ピーナツはヨーロッパでは栽培されることはなかったが、その代わりアフリカに活路を見つけた。

 最初にピーナツをアフリカに紹介したのはポルトガルの奴隷貿易商人だ。アフリカは気候や地形が変化に富んでいるにもかかわらず、耕作に適した作物があまりなかった。奴隷貿易商が運んだピーナツは育てやすいだけでなく、栄養のある植物だったので、土地の人々に広く受け入れられるようになった。

 イギリスの津々浦々からの清教徒たちがプリマスに到着する1年前の1619年には、バージニアに開かれたジェーズタウンというイギリス領アメリカ植民地に早くも黒人が年期奉行人として姿を見せはじめる。そして1700年代から1800年代にかけて多くの黒人が新世界へ送り届けられ、プランテーションで強制的に働かされたことは周知である。北アメリカへ送られた黒人奴隷の殆どは、奴隷商人によってピーナツがもちこまれたアフリカ西部出身者だったので、植民地でも母国にいたときのように、ピーナツを栽培し、食べていた。初期の入植者はこの植物をground nuts (グラウンド・ナッツ)と、その後(1769年)groun pea(グラウンド・ナッツ)と名づけた。新しくアメリカ人となった人々の間にピーナツという言葉がしっかりと根づいたのは1800年頃である。また1830年にもなるとアメリカ人の大半は、この植物の南部風の言葉goober(グーバー、アフリカのバントウ語ngbaから)を知っていた。ついでにしるすと、ピーナツが南部の作物であったことから、1850年代にはジョ−ジア州からの辺境の住民はグーバーといわれ、またジョ−ジア州は1877年までにはGoober State(グーバー州)として知られた。とはいえ、南北戦争以前には、白人はこれを人間の食料にせず、もっぱら家畜のえさに使っていた。ピーナツに対する彼等の見方を一変させたのは、南北戦争の勃発だ。南部の土地が焼土化し、食料不足といった状態に陥いると、南軍の兵士たちは、それまで家畜の飼料とみなされていたピーナツを食べるようになったのだ。ピーナツは美味しいという噂が南部で戦った北軍の兵士たちの間にも広がり、ピーナツはいつしか彼等の好物となる。彼等は帰還してからも口にしたピーナツの美味しい味が忘れられず、かくてそれは合衆国じゅうに広がった。もっとも、1850年代には北部の大都市の通りを行くを売り歩く物売りたちのなかには、炒りたてのピーナツを売る商人の姿があったけれども。

 peanut butter (ピーナツバター)は1890年にセントルイスの医者によって考案され、後健康食品として紹介されたものだ。多くのアメリカの子供たちの大好物のpeanut butter sandwiches(ピーナツバター・サンドイッチ)が登場するのは1920年代後期だ。次はTruman Capoteの名作Breakfast at Tiffany's(1958)の一文である。「フレッドがそんなにのっぽになったのはピーナツバターのおかげです。(中略)彼はこの世の中で、馬とピーナツバター以外は何も関心がなかった人です」           

(新井正一郎)