Major League Baseball

 

最初の代替プレーヤーたち

 

 今回は、大リーグ史上二度とない奇妙奇天烈な試合について述べてみたい。資料はThe Baseball Research Journal (No. 25, ユ96)に掲載されたJoe Naiman著 メThe First Replacement Players: The "Tigersユ of May 18, 1912" である。

 時は、1912年5月18日。場所は、Philadelphia。地元AthleticsとDetroit Tigersの間で行われた。米大リーグ史上有名な(悪名高い?)Ty Cobbは当時Tigersで活躍中であったが、ニューヨークのHighland Parkでの試合でヤジを飛ばした観客を追ってスタンドに入り込んだ。これを目撃したAmerican League 会長のBan Johnsonは, Cobbに罰金と10日間の出場停止処分を科した。Cobbは、チーム内の同僚に友人はほとんどいなかったが、選手たちは、自分たちは心ないファンから守られるべきと感じ、この処分に抗議して同情ストライキに打って出た。そしてこの同情ストにAmerican League中から支持が集まった。

 ストは、5月18日に設定されていた。Tigersの経営者たちは、ストになれば5,000ドルの罰金を支払わねばならず、これは1912年当時, 多くの選手が束になって1年間で得る収入を上回る金額であった。経営者は、なんとしても試合を成立させるべく、誰でもいいから代替要員の選手を狩り集めることにした。引退した選手、アマチュア、セミプロ、コーチたち、何でもいいからPhiladelphia地域で集められ得る選手を片っ端から集めた。この選手たちのうち8人は、二度と大リーグで試合に出ることはなかった。3人(スカウトたち)は引退選手、そのうち1人はこの試合が大リーグの初試合で、もう一度出場したのは4年後であった。

カムバック選手たち

 Tigersの監督Hughie Jenningsは殿堂入りを果たした人であるが、とっくに現役を引退していた。彼は1890年代にBaltimore Oriolesでプレーし、1907年から1920年までTigersの監督を務めた。彼自身も9回ピンチヒッターとして登場しゲームに参加した。また当時TigersのスカウトであったJoe SugdenはPhiladelphia生まれで、彼は1塁を守り、試合最後の打者となった。この試合で彼は1得点をあげ、大リーグ通算303得点目を記録した。

 捕手の Deacon McGuire は1884年から通算25年のシーズン出場を果たした人だったが、今回の「復帰」で通算26シーズンの出場となった。これは、1993年、Cap Ansonによって破られるまで、史上最多シーズン出場の記録であった。また、48歳で出場したかの有名なSatchel Paigeは1948年、42歳で黒人リーグから大リーグのCleveland Indiansに加入し、St. Louis Brownsを経て1965年に59歳でKansas City Athleticsを退団しているから、Paigeこそ最年長大リ−ガーであると思うのだが、Paigeはユ65年には1試合3インニングスしか投げていないので、Naiman の言うとおりかも知れない。最近The Oldest Rookieという本が出版され、これが映画化され評判になっている。主人公はJim Morrisで史上最年長の大リ−グ新人投手で35歳であった。しかし正確にはthe major leagueユs oldest rookie pitcher in forty yearsということである(原著の奥付より)。つまり、Paigeは1953年に57試合登板し、以後65年までは大リーグでプレーしていなかったのでJim Morrisは過去40年間 (ユ53年のPaige以降)に登場した最年長新人ということであろう。

 ところでSatchel Paigeは黒人のため、その卓越した技量にも拘わらずThe Color Lineを超えるのに42歳まで待たねばならなかった。したがって原著名The Oldest Rookieは史実に照らせば事実と合わない。といってJim Morrisの快挙にケチをつける気はさらさらない。

 話を1912年に戻そう。コーチのMcGuireはこの試合で2打数1安打1得点。生涯通算得点を770点と伸ばした。

 この「復帰」組以外のプレーヤーは、つぎのとおり。Smith ことJohn Joseph CoffeyはMcGuireと交替したが、ただ1回の打席で死球を喰ってしまった。ついでJim McGarrは先頭打者で2塁手、4打席で安打なし。Billy Mahangは3塁を守る。彼は、1916年にPhilliesで1試合のみ出場。後1919年シカゴのBlack Sox プレーヤーたち(例のBlack Sox事件に拘わった選手たち)と賭け屋たちとの仲介で悪名高くなったが、161センチの短躯で1打席無安打。Ed Irvinと交替。Irvinは7回に捕手へと守備位置を変更。彼は3打席で3塁打2本を打つが、無得点。1916年に酒場の窓から抛り出され死亡したとのこと。

 投手はAl Travers。長身約182センチ、90キロ。Traversは8回裏まで投げて被安打26本、許した得点24点、7四球、奪三振1であった。Traversの野球との関わりは、それまでSt. Josephの大学チームの道具係であっただけ。レフトを守ったのは、Dan McGarveyで3打席無安打、1四球、1盗塁。センターはBill Leinhauserで、身長約175センチ、体重約80キロ、4打席無安打。ショートはPat Meaneyで2打席無安打。彼はPacific Coast League(現在の3A)でプレーしていたが、大リーグの試合はこれが最初であった。年齢40歳は、1948年にSatchel Paigeが42歳でCleveland Indiansに入団するまでの最年長新人の記録であった。

 試合の経過は語るも涙である。「正規」のTigersの面々は球場に現れるや、ユニフォームを着て軽く練習。その後ユニフォームを「代替」プレーヤーたちに「譲った」。相手チームの監督は名将Connie Mackであった。彼は外野手のBris Lordと Rube Oldringを除いてレギュラーで先発メンバーを組んだ。ただし、投手は3人で3回ずつということにした。この土曜日の試合の観客は約2万人。多くのPhiladelphiaファンは入場料を返せと叫んだが、結局おとなしく席に着き、ゲーム終了まで騒ぎは起こらなかった。Philadelphiaは1回裏に3点、3回裏に3点、5回裏8点、6回裏4点、7回裏4点、8回裏2点、計24点を挙げた。一方TigersはJack Coombsから無安打三振3を奪われ、4回から代わったBoardwalk Brownに三振5を喫し、安打1、2得点。7回から登場したPennockにも無得点。結局24対2のスコアであった。Tigersは7個のエラー、暴投3個と散々であった。

 翌日(日曜日)「事件」の張本人Ty Cobbはスト終結をチームメイトに促した。当時Philadelphiaでは安息日の試合は法律で禁じられていたため、Tigersの「正規」メンバーは5月20日(月)、ゲームに復帰し、12人の「代替」メンバーたちは1試合のみで歴史にその「偉大」なる足跡を残したのであった。

後日談

 代替要員選手のうち2人、Hap WardとJim McGarrはそれぞれ93歳と222日、92歳254日と長生きであった。これら12人の平均寿命は70歳4ケ月7日とのこと。ただしそのうち2人については、生年月日のうち日付だけがはっきりしないという。彼らの中でペンシルヴァニア生まれでないのはMcGuireとHap Wardのみで、あとは全員ペンシルヴァニア州生まれであった。かくしてペンシルヴァニア州はWilliam Penn以外にも誇るべき人物を米国史に提供したのである。           

(榎本吉雄・言語教育研究センター教授)