Baseball

Mark Twainとベースボール

 

 前号で女性アンパイアについて述べたが、今回は Darryl BrockのMark Twain と野球についてユーモア溢れる記事を紹介してみよう。原著の掲載誌は前回の場合と同じくThe National Pastime 誌(No. 14)である。

 1875年のある春の朝、baseball が "base ball" と2語で表記されていた頃、Hartford Courant 紙(5月20日付)につぎのような広告が載った。

「賞金250ドル。火曜日、野球試合観戦中、1人の少年が我輩の英国製(絹)コウモリ傘とともに遁走。傘が無傷で戻ってきた場合には5ドル払うものなり。当該少年(生きた状態)は不要、遺骸には200ドル支払うものなり。」

 Courant 紙は、Twainの隣人でThe Gilded Ageの共著者であるCharles Dudley Warnerが編集責任者であった。その試合は1875年シーズンの夢の対決であった。ホームチームのHartford Dark Bluesの相手はボストンの王者Red Stockingsであった。Twain は当時The Adventures of Tom Sawyerの完成間近にあったが、その豪邸(3階建、16部屋)から試合見物に出かけたのであった。Twainと一緒に観戦に出かけたのは、友人のJoseph H. Twichell 師であった。Twain は、こう書いている。「牧師なる人種は非番のときは最良の同伴者なり」と。両人は終生変わらぬ友人であった。当時Twainは40歳(11月には)、Twichell は36歳であった。Twichell はMenユs Club チームでセンターを守り、野球観戦にはうってつけの友であった。

 時は5月18日、火曜日。場所は、Hartfordのthe Ball Club Grounds。コネティカット川から4ブロック離れたWillys Avenue にあって木の柵で囲われたグランドであった。新装なった木製の特別観覧席には絹をまとった淑女たちが押し寄せ、扇子やパラソルの花が咲き、エスコート役の男性たちはフロックコートに身を固め、物知り顔に試合の展開についてあれこれ説明するのに大童である。特別席の料金は75セント。一般席は50セントで、観客で溢れていた。球場の周囲は8人の警官が配備され、入場券なしでもぐりこもうとする男どもを見張っていた。午後3時、9千人の観客の見守る中試合は開始された。

 著者のBrockは両チームのメンバーを次のように(Twain流に?)紹介している。Boston Red Stockingsの最高給取りはショートの George Wright、兄の Harry は監督で、この2人は後に兄弟とも野球殿堂入りした最初のプレーヤーであった。投手はAl Spalding。捕手は助祭Jim Whiteでrifle-armedとその強肩をたたえられた。しかし当時は今日のグラブやミットやマスクといった身体を守る道具は使用されていない時代で、キャッチャーは打者から40フィートも後ろに位置していたというから、rifled-armとは一体どのような強肩を示す形容詞だろうか。そして "Orator Jim" O'Rourkeは三塁手でありチームの弁護士でもあり、その綽名にふさわしく弁舌の名手で人々の羨望の的であった。

 片や地元のHartford Dark Bluesの陣容は次の如し。二塁手は"Black Jack" Burdock。強打の外野手としてTom York。華奢なJack Remsen。10代の火の玉投手兼外野手のTommy Bond(交代要員の投手だったが、後に述べるように当時の規則からすると火の玉と称するような速球は投げられなかった筈)。ひときわ大きな拍手を浴びて登場したのは主将で三塁手のBob Ferguson。1シーズン2,500ドルという最高給選手。"Death to Flying Things"と後に綽名を付けられたように守備の名手であった。

 3時半試合開始。Hartford先攻。当時の試合は今日の試合と大きく異なっていた点がある。最大の相違点はグラブなど選手を保護する道具は一切なかったことである。節くれ立った指は、選手たちの誇りの印であった。捕手は、ホームプレートから40フィートも離れて位置し、塁上に走者がいるときだけ近くに寄った。ファウル・チップも何もかも素手で捕球した。このシーズンHartfordの一捕手が鳥かごのようなマスクをかぶり注目を浴びたが、実際は嘲笑の的であった。投手と打者の間隔は現在より短く、そして高め低めと打者の要求するところへ、しかも下手投げで(今のソフトボールのように)投球したのであった。したがって三振はまずなく、攻撃はすさまじいものであった。フォアボールは少なく、アンパイアのAlphonse "Phoney" Martin(審判は一人だけ)は、この試合でボールと判定したのはたったの14球であった。

 現在のルールとの相違は次のような場面でも見られた。一塁に走者がいて打者の一撃で走ったが打球はファウルであった。走者は一塁へ戻ったがその「戻り方が遅い」という理由でアウトになったのである。当時のルールでは打球がファウルになったとき、走者はそのボールが相手投手の手を経て元の塁に届くまでに帰塁しなければアウトとされたのである。なんとも奇妙奇天烈なルールであった。またBoston Dark Bluesの投手William "Candy" Cummingsは小柄ながらその投球は速度に変化をつけて対抗した。 Cummings は、打者から外へ逃げてゆく変化球を考案していたのであった。今でいうカーブは、 Cummings がカーブの発明者と言われていた。彼は、10年ほど前に蛤の殻を抛りあげていたときにこの変化球を思いついたとのことである。技術的にルール違反ではあったが、この変化球はたちまち他の投手たちのマスターするところとなった。またファウルボールはワンバウンドで捕球してもアウトとなった。試合は二転三転、10対5でBoston Red Stockingsの勝ちとなりTwainたちは「また来年があるさ」とということになったのである。

 1889年4月、 New York はマンハッタンのDelmonicaホテルで、世界を一周してこの国技を広めて帰国した旧敵 Boston Red Stockings の Spalding 率いるプロ選手たち一行への歓迎会があり、Twain と Twichell が歓迎会に出席した。メニューは、9"innings"に分かれており、次々と乾杯が続くのであった。

 Twain はその頃、もじゃもじゃの白髪まじりになっていたが、「連中は腹這いになって塁を盗みながら地球を一周して、新しい赤道を耕してきた」などと言って満場を爆笑させていたのであった。

 ベースボールは疾風のように荒れ狂う好況の19世紀の活力、苦闘を象徴するものであり、19世紀の姿そのものなり、との言葉を彼は残している。Twainは、はたして14年前のあの春の日のHartfordでのゲームを念頭においてこの言葉を発したのであろうか。それとも、Twain と Twichell は Spald-ing に、はるか彼方の日々を、あの遠い午後のゲームを思い出させようとしたのであろうか。それとも、例のコウモリ傘は、はたして戻ってきたのであろうか、と著者の Brock は結んでいる。

 さて、この駄文を書き終り一息入れようとテレビにスイッチを入れると、ワールド・シリーズ第2戦が放映されていた。San Francisco GiantsとAnaheim Angelesというワイルド・カードから立ち上がった珍しい対戦であった。9対9の同点。8回裏AngelesのTim Salmonが決勝のホームランを打つと、大きな垂れ幕がスタンドに翻った。そこには大きな鮭の絵がかいてあり、墨痕鮮やかに(?)"KING SALMON" とあった。これには唸った。

(榎本吉雄・言語教育研究センター教授)