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1枚の書簡が語る歴史

 

 歴史学研究会が『世界史史料集』(岩波書店)の編集をはじめている。2002年12月に刊行開始予定だそうである。全12巻からなり、そのうち第7巻はアメリカ(ス)にあてられる予定である。大学でラテンアメリカ史の講義をしていて、なにか適当な史料集があれば便利なのだが、と日頃感じていただけにこの企画を歓迎したい。そもそも歴史学は史料を基礎として成立している学問である。過去の社会や人びとの生活ぶりを生き生きと伝える史料を直接読むことができたら、学生たちの歴史への関心がもっと高まるに違いない。

インディオ反乱

 さて、アメリカ(ス)をあつかう第7巻の227項目のうちのひとつを、筆者に選ばせてくれるとのこと。与えられたテーマはインディオ反乱である。インディオ反乱など、ラテンアメリカ史では山のようにある。メキシコにかぎっても1820年から1907年までのあいだに合計195のインディオ反乱が記録されている。とはいえ、きっと筆者に期待されているのは1848年のマヤ系インディオの大反乱であるカスタ戦争関連だろうと思われる。しかしながら、この反乱については反乱指導者の書簡が多数残されているし、当時の新聞・雑誌もたくさん残っている。かずある史料のなかからひとつだけ選ぶのは難しい。しかも、史料集の章立てに合致したものでないといけない。どうやら項目は「ラテンアメリカの国民統合」という章のなかに置かれるらしい。

 さんざん迷ったあげく、ひとつの史料を選んでみた。反乱のさなか、メキシコ・ユカタン州知事サンティアゴ・メンデスが米国国務長官ジェームズ・ブキャナンにあてた書簡である。書簡は1848年3月25日付けである。

 メンデス知事は言う。「謹啓 ユカタン州できわめて不幸な事件が起こっており、われわれは危機的かつ絶望に近い状況におかれている。わが政府はユカタン州をこの苦境から救出するための可能なかぎりの施策を講じてきたが、われわれを取りまく苦難、わが州を苦しめている大きな災難をやわらげることのできる対策をなにひとつ見いだせないまま、万策つき果てた。必要という服従せざるをえない法律と緊急避難という権利が認めてくれる方策に、私はすがらざるをえないのである」。

 さて、ここで緊急避難的方策とはいったいなにをさしているのだろうか。ひとまず、先を急がずにもう少し書簡をみてみよう。書簡はつづく。「わが州の文明化された階級である白人種は、いまや一斉蜂起した土着人種に残虐かつ野蛮なやりかたで攻撃されている。やつらは、獰猛な本能をもってわれわれに皆殺しの野蛮な戦いをしかけている。すべてが略奪され破壊されつくし、町には火が放たれている。この野蛮人の血に染まった手に落ちたものは、男女の別、年齢にかかわらず、もっとも残酷な拷問を受け無慈悲に殺されている」。

 1821年にスペインからの独立を達成したメキシコは順風満帆に近代国家建設にむけて歩みはじめるはずだった。しかし、その前に立ちはだかったのは300年にわたる植民地支配をへてすっかり飼い慣らされたはずの「野蛮」であった。前述のように19世紀はメキシコにとってまさにインディオ反乱の世紀であった。植民地期には白人社会とインディオ社会をできるだけ接触させないように分離政策がとられていた。独立後、近代化を急ぐ政府はインディオ同化政策をとる。

 それは、文明=白人に同化していくか、それとも抹殺されるか、というなんともインディオにとって厳しい現実であった。それが、インディオ反乱の多発としてあらわれる。同時代の自由主義派は、反乱は植民地期の恨みを晴らしているのだと主張したが、そうではなかった。反乱はおもに土地の私有化など独立後の自由主義的改革を原因としていた。

 

カスタ戦争

 しかしながら、19世紀メキシコにおいて多発したインディオ反乱はすべて「カスタ戦争」、つまりインディオと白人とのあいだの人種戦争であると理解された。そして当時の新聞紙上ではカスタ戦争は、「野蛮」対「文明」の戦争として扱われ、反乱インディオは「野蛮人」と表記された。とりわけ、1847年にメキシコ南東部のユカタン半島において勃発したマヤ系インディオによる反乱は、その規模と持続年数において突出しており、たんに「カスタ戦争」という場合にこのユカタン州における反乱をさすことが多いのである。1847年にはじまった反乱はユカタン半島のほぼ全域にひろがり、諸都市はつぎつぎに制圧され、翌48年5月には州都メリダ周辺を残して半島の3分の2がインディオ反乱軍の手におちていた。

 そして書簡は言う。「かかる状況をかんがみて、私は究極の方策にすがる決意をした。それは、列強諸国に直接介入を要請するということである。わが州を救う責務を引き受けてくれた国には、わが州の領有権と主権を譲渡する準備がある。これが貴殿への本書簡の趣旨である」。

 なんと緊急避難的方策とは、援助と引き換えにユカタン州の主権を米国に譲るという申し出だったのだ。メキシコの独立以降、ユカタン州は分離独立の動きをみせていた。つまり、地方の利害が中央=国の利害と一致しないという未熟な近代国家の現実であった。

 そして、米国のポーク大統領は国会に提出した教書のなかで「ユカタン州の主権の

獲得を目的とするなんらかの施策の採択を勧告するつもりはない。しかし、これまでのわれわれの政策に照らしてみるならば、ユカタンの主権がスペイン、イギリス、その他のヨーロッパ諸国の手に渡ることだけは認めるわけにはいかない」と述べ、このあとモンロー宣言を引用している。

 ついに、ユカタンの一時的占領を行使する許可を大統領に与える趣旨の「ユカタン法案」が上院に提出された。同法案をめぐって上院では賛否両論の激しい議論が繰り広げられた。最終的には、インディオとの和平条約が成立したというニュースを受けてユカタン法案は却下されてしまう。おりしも米国はメキシコと戦争状態にあり、その戦後処理をこじらせたくなかったのであろう。

 しかし、実際には反乱は終結しておらず、さらに激しさを増していた。米国との戦争に破れたメキシコは、国土の一部(テキサス、カリフォルニア、ニューメキシコ)を米国に譲渡するかわりにえた補償金の一部をユカタン州に援助した。こうして、ユカタン州は反乱の窮地を脱すると同時に、メキシコへの併合に同意した。インディオ反乱が、皮肉にもメキシコからの分離をはかったユカタン州をメキシコに再統合させる役割を果たすこととなったのである。このように、このたった1枚の書簡はメキシコの独立後の混乱期の様子を生き生きと伝えてくれている。史料集の刊行が待ち遠しいかぎりである。そして、筆者の手元にはユカタン法案に関する米国上院の議事録があり、それを読み解く作業は今後の課題である。

             (初谷譲次)