Baseball

淑女アンパイア:Amanda Clement

 

 今回は苦難の道を歩んだ Postema と対照的に、淑女アンパイアとして一般市民、報道関係者、野球界から暖かく受入れられたAmanda Clement について、再度 Berlageの資料にもとづき述べてみることにする。

 Clementはセクハラを受けることもなくアンパイアとしての技量にも批判を浴びることも皆無に近かった。まれに批判されても、野球界(セミプロ)および報道関係がすばやく彼女の弁護にまわった。あるときToot Thompson なる選手が、彼女のストライクーボールの判定に暴言を吐いたところ彼女は球場を去ってしまうという事件が起こった。数日後の試合に監督は Thompsonを出場させようとすると、彼女は審判の業務を拒否し、球場をあとにした。 Amandaは病気で、アンパイアの仕事が務まらないからとされたが、翌日新聞は事実を報じた。このように、Amanda は lady である、紳士道にもとる行為は許されないのだ、というようなイメージが報道側によって作りだされていたのだった。

 20世紀の初めの頃、アンパイアに対する暴言や暴力行為は少なくなかった。1907年Billy Evans というアンパイアはファンに瓶を投げつけられ頭蓋骨を骨折した。このような中で Amanda は暴言にも暴力的行為にも見舞われなかった。球場でアンパイアとしての品位を汚されることはなかった。彼女にとってアンパイアの仕事は公平さが第一であり、それは性差と無関係であった。姿格好から服装、そして振る舞いまで男性アンパイアのそれに似せようとしたPostema のような性差への意識から生じた対立・相克は経験しなかったのである。彼女は自分は lady である、したがって当然ladyとして扱われるべきと考えていた。これには時代の流れが大きく影響している。

 20世紀初頭、女性らしさと男性らしさははっきりと区別されていた。男性はパンを稼ぐのが仕事であり、女性は家庭を守るのが仕事であった。女性は weaker sex と考えられ、厳しい人生の現実から男性によって守られねばならない、とされていた。淑女であるということは、尊敬されるということであった。淑女にふさわしい服装、態度、行為が常に要求されていた。女性は公衆道徳の保護者であり、人生の審美的な特質を体現するものと見られていた。

 このような性差による、厳とした役割区分の存在は Amanda に有利に働いたと Ber-lage はいう。つまり女性アンパイアは男性ではなしえない役割を果たすものとされた。女性の前での乱暴な振舞いや、暴言は粗暴であるばかりか男らしくないとみなされた。したがって女性アンパイアは選手、監督、ファンから男性アンパイアよりも尊敬された。例えば、ある新聞記事には「Clementが審判をすれば、試合は無作法な行為や汚い言葉と無縁になるであろう」とあった。彼女は敬虔な会衆派の信者であった。汚い言葉使いは一切しなかった。選手たちは彼女の礼儀正しい物腰を尊敬した。高めの球をストライクと判定されても、選手たちは彼女に対して メBeg your pardon, Miss Um-pire, but wasnユt that one a bit high?モというようにやんわりと抗議したとは Clement の述懐である。

  Clement は堂々とした体躯であったが、姿・格好を男性のように見せようとはしなかった。彼女は最初の女性アンパイアであったので、彼女特有の服装を作り上げた。くるぶしまであるスカートを履き、白いブラウスに黒の男性用のタイを着用し、野球帽をかぶった。予備のボールはブラウスの中にいれておき、マスクはしなかった。理由はアンパイアは彼女ひとりなので、投手の背後に位置して全ての判定を下したのである(投手の後に審判を置くのは私自身小学生のとき目撃したことがる。)のち黒タイはやめ、胸のところに大文字で UMPSとしるした白いブラウスを着用した。

 しかし彼女を優れたアンパイアに仕立てたのは、その淑女らしい物腰や選手たちの「騎士道」的行動よりも、彼女の審判振りであった。ルールに通じ、公正な判定振りが新聞でたびたび報じられた。「鷲のような鋭い目を持ち、常に冷静で、特にボール・ストライクの判定は正確で、その優れた審判振りは最高の男性アンパイアより尊敬され、選手たちに満足感を与えた」とある。あるトーナメントで、翌日の試合に予定されているアンパイアが姿を現すとファンはブーイングを鳴らし、Clementに審判をさせろと言ってきかない。監督が、その審判にすでにお金を払ってわざわざ来てもらったのだからと説明すると、観衆はその場でお金を集めて車を雇い、 Clement を連れに行ったということである。15ドルかかったとある。

 彼女はこの仕事によって大学教育を受ける費用を賄った。一試合15ドルから25ドルであった。アンパイアの仕事から引退する頃には、最高額のアンパイアであったと言われている。一試合平均20ドルとして夏場に50試合こなすと1,000ドルの収入であった。1910年当時、米国の労働者階級の96%の年収が2,000ドル以下であったことを思えば、Clementのアンパイアのアルバイト料はたいしたものであった。

 Clementは女性は男性と同じように能力があると信じていた。後年彼女はさまざまな仕事についた。体育教師、ソーシァル・ワーカー、治安判事、新聞記者、税額査定者、子供スポーツのコーチなどであった。女性として諸方面での開拓者であった。例えば、女性として「最初の」バスケットボール審判員、Winsconsin 州 La Crosse の警官試験に合格した「最初の」女性、フットボール選手たちにバレーを教えた「最初の」女性であった。女性として職業上の障害を感じたことはなく、仕事においても、スポーツ面でも、女性としても、それぞれの役割を果たす上で何らの障害も経験しなかった。

 Clement は女性アンパイアの出現を推進した。彼女によれば、女性が試合を取り仕切っていれば、粗暴な行動や言葉は出てこないだろうということだった。美人のアンパイアに対して「この色盲のばか者め!」などといった言葉などだれが言えようか、ということである。女性にとってアンパイアは良き職業であると彼女は信じていた。若い女性が有能なアンパイアであり、かつ完璧な淑女であることとは両立しない筈がない、というのが Clement の考えだった。アンパイアの仕事はテニスと同じように女性にふさわしい。健康的であるという。一度大リーグでアンパイアをしたいかと尋ねられたことがあった。彼女は、正規の職業アンパイアとして務める気はないが、ゲームを理解している女性なら大リーグでも男性に伍してやっていけると答えている。

  Clement は、開拓者女性の独立心とビクトリア朝時代の女性らしさの両方を兼ね備えていた。7歳のとき父親が亡くなり、母親が家庭を支えた。 Clement にとって母こそ自立した女性の範であった。また彼女は、女性の役割に変化をもたらした20世紀初頭の産物でもあった。その本拠地が家庭にあるとされた「真」の女性が,今や「新」らしき女性にとって代わられたのであった。「新」らしき女性は外の世界に参加し始めていた。これは当時起こりつつあった米国社会の構造変化─大量の移民の流入、産業化、都市化─のもたらした結果であった。懸命に働く頑健な移民女性と、何一つ運動をしないひよわな中上流の女性との対比は、医学界に女性の健康への考えを改めさせた。

 女性も大いに運動すべしとなり、女子大のカリキュラムに体育が取り入れられた。選挙権獲得運動などにより1890年までに、多くの女性があらゆる分野で労働市場に進出した。このような社会的変化及び幼い頃からの幾多の経験により、Clement はプロのアンパイアとして成功したのであった。

 他方 Postema もまた時代の生み出した人であった。彼女は Clement よりはるかに激しい反発・性差別に出会った。彼女には優れた能力があったにも拘わらず、野球界はその技量を信頼したというより、性差別の謗りをおそれて彼女をアンパイアとして採用したのであった。女性がアンパイアの道を歩むのに、法が性差別を禁止している現在の方が、20世紀初頭より困難であるとは皮肉である。Postema はここに野球界になお残る見えない差別,すなわち野球は男性の占有物という old boy network の存在を指摘する。大リーグにおける男性優位の思考は、最後の砦になるであろうと Berlage はいう。         

 (榎本吉雄)