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ヘンリー・ジェイムズとアメリカ

                   河 村 民 部

 ジェイムズの処女作長編小説『ロデリック・ハドソン』のことから始めたい。この作品は、芸術作品の目利きはできるが、自ら製作する才能は持ち合わせていないことを自覚した、金と暇を持ち余した独身男ローランド・マレットが、無一文のロデリック・ハドソンという若者に彫刻家としての天才を見出し、その才能を磨いて天才的な作品を作らせることで、自らの傍観者としての人生に、生きがいを見出さんとするが、持ち駒であるロデリックという若者は、パトロンの目論見通りには動かないで、芸術の本拠地ローマを舞台に、その情熱を絶世の美女クリスティーナ・ライトに注ぎ尽くして、彫刻家としての泉を枯渇させ、ついにはアルプスの崖から落ちて死んでしまうという物語である。

 その小説の最初のほうで、ロデリックの製作した水を飲む若者のブロンズ像に魅入られて、その若者は何の象徴なのかとローランドがロデリックに尋ねる場面があるが、ロデリックの答えが、非常に興味深い。ロデリックはこう言う― 'Why, heユs youth, you know; he's innocence; he's health, heユs strength, he's curiosity. Yes, he's a good many things."また水の杯の意味は何かと訊かれて、 'The cup is knowledge, pleasure, experience.'と答える。

 ブロンズ像の若者は、「若さ」と「無垢」と「健康」と「力」と「好奇心」の顕現だというのであるが、これら一連の抽象名詞は、何をか言わん、これぞまさにアメリカ、ジェイムズの当時のアメリカ的価値の言語表象以外の何ものでもないのである。

 そしてこのような価値を体現した若者が、すなわちロデリックだという筋書きである。つまりは、ロデリックは、アメリカ的価値を一身に集めた若者、あるいは若き日のジェイムズが夢見た理想のアメリカ的価値を、うまくいけば、具現しうる存在ということになるのである。若き日のジェイムズにとって、新大陸アメリカは、そこに住む若者同様に、若々しく、生命力にあふれ、無垢で、好奇心の塊といった、いわばロマン派の子供そのものの存在であった。

 そのロマン派の子供が旺盛な好奇心から憧れ求めるものが、ロデリックの次の答えに明瞭に示唆されている。ブロンズ像の若者が飲み干さんとする水の入った杯は、「知識」であり、「快楽」であり、「経験」である。これらの抽象名詞が何を意味するものなのかは、ジェイムズを少しでも読まれた方には、一目瞭然であろう。さよう、それらは、まさに、旧大陸ヨーロッパそのものなのである。若き日のジェイムズにとって、新大陸のアメリカとは対照的に、旧大陸のヨーロッパが具現する価値が、「知識」「快楽」「経験」であった。

 ロマン派の子供ロデリック、否、アメリカがこれらのものを求めて、ヨーロッパに出かけていく。絢爛たるルネッサンス芸術が花開いた都ローマほど、ロデリック、否、アメリカにとって、その好奇心を充たすに相応しい所はない。だが、「無垢」なる存在が、不用意に「経験」世界に足を入れると如何なることになるか、日を見るより明らかである。

 予期にたがわず、ロデリック、否、アメリカはヨーロッパの「知識」「快楽」「経験」の泉をすべて次々と飲み干していき、彫像製作への情熱は、噴出し始めたと思う端から流れを変え、これらヨーロッパ的価値のまさに具現者である絶世の美女クリスティーナ・ライトに注がれる。しかしそれは稔らぬ不毛の愛に終わり、若者の「若さ」「無垢」「健康」「力」はことごとく瓦解していき、ついには「好奇心」のかけらも残ることはない。

 そのような結末に、結果として、手引きすることになったのが、他人のまわしで相撲を取ろうとした、ロデリックのパトロン、ローランドであったという事実を読者は銘記せねばなるまい。他人のまわしで相撲をとろうとするとは、穏やかな言い方ではないが、ローランドの生き方には、まさに適切な表現であろう。つまり、自らは芸術家にはなれない傍観者であるローランドは、天才芸術家のロデリックを媒体にして、いわば間接的に、芸術家を体験することで、自らに欠けているものの埋め合わせをしようとしたわけである。ローランドはあくまでも評論家でしかない。

 そのようなやり方は、芸術に限られるものではない。ローランドの人生そのものが、間接的であり、傍観者的だからである。ロデリックの許婚であるメアリ・ガーランドにぞっこん惚れ込んでいながら、当の本人には一言も心のうちを白状せずに、公けにロデリックを保護するのに反して、今度は彼女を無言のうちに、密かに保護し、心のうちで温める。

 このように、表向きは、ローランドは、きわめて厳格なピューリタンである。

 名にし負うニュー・イングランドの典型であり、ジェイムズお得意の、きわめて高度な、天上的な精神愛の具現者である。私のような世俗の者には、背筋を凍らせかねないような、冷たさも感じられるほどである。

 こうした意味での、ロデリックの後を継ぐのが、『アメリカ人』のニューマンであり、『ある婦人の肖像』のイサベル・アーチャーであり、また『鳩の翼』のミリー・シールであるといったように、この系譜を充たす人物は枚挙に暇がない。ここにも、ジェイムズの体現するアメリカ的特質が、明瞭に表現されている。

 だがジェイムズのアメリカ人としての特質は、ローランドの体現するピューリタン的特性のみではない。ローランドには別の顔があるのである。ロデリックの許婚メアリ・ガーランドを密かに恋するローランドは、実は、幾度もロデリックへの嫉妬を感じ、あるときなどは、ロデリックが人生に失敗して死んでくれることを白昼夢に見、それを渇望さえするのである。

 もちろん厳格なピューリタンのローランドであるから、そのような白昼夢を実行に移すことはない。しかし、漱石の『こころ』の先生が親友Kを恋のライバルとして葬り去るように、心のうちで、自らのプロテジェであるロデリックを殺しにかかるのである。このような生の生臭い、どす黒い世界も、ローランドの中にはある。先ほどローランドの傍観者としての面を強調したが、これは生身の人間ローランドのもうひとつの面である。

 つまりは、そのようなドロドロとしたものが、ジェイムズの小説にはある、否、作者ジェイムズの心のうちにもあったに違いない。これはアメリカ人に限ったものではなく、世界共通の人間の心の特質であるが、強調したいのは、漱石の『こころ』やそれが依拠したアンドレーエフの『ゲダンケ』とは違い、そのような悪夢、つまりサタンの誘惑を振り切って、白日の世界に回帰、あるいは天上世界に昇天するところに、ジェイムズ的、否、ニュー・イングランド的特性があるという点である。

 F.R.リーヴィスは、名著『偉大なる伝統』の中で、ジェイムズをイギリス小説の「偉大なる伝統」の系譜にその名を連ねる、ジョージ・エリオットの継承者としたが、決定的なところで、リーヴィスは間違っている。ジェイムズは、エリオットのような、地上的愛の具現者というよりは、天上的な、精神愛の希求者であったといわねばならないからである。ジェイムズの根は、イギリスにではなく、ニュー・イングランドに在ったのである。

(近畿大学文芸学部教授)