Scenery                                      

文学の中のアメリカ生活誌(36)

Fork and Plate(フォークと皿) 食器類としてのフォーク出現の歴史は7世紀の中東の宮廷に遡るといわれる。1100年頃にそれがイタリアに伝わり(11世紀のモンチ=カシノ修道院の写本には、フォークを使って食事している2人の男性の絵が出ている)、1533年にはイタリア人のC.Medicisがフランスの国王のもとに嫁いだおかげで、フランスにもたらせれた。もっともこの目新しい道具が一般に使われだすのはフランスでは17世紀に入ってからだ。同じ頃、イギリス人の間にもフォークを使う習慣が定着するようになった。フォークについての印象を活字で表した最初のイギリスの文人は Ben Johnson だ。彼はVolpone(1605)のなかで「君は食事の時、銀のフォークの使い方を学ばなければならない」としるしている。

 初期の北アメリカでは、移住民の多くは北西ヨーロッパ人だったけれど、フォークは珍しい食器だった。植民地時代の最初のフォークは、1633年にマサチューセッツの初代州知事 John Winthrop のもとに送られてきたものだが、それは専用のナイフ箱に大切に入れられていた。その3、40年後、先が2本にわかれたフォークがイギリスから持ち込まれ、マサチューセッツだけでなく、ニューヨークやバージニアの裕福な家庭の食卓で使われたものの、一般の人々は18世紀に入っても依然ナイフとスプーンと指を使って食べていた。もっとも当時のナイフは肉を切るためというよりも食べ物を口に運ぶ道具であった(スプーンは皿の上で肉を固定させるための道具にすぎなかった)。このナイフで食べるというしきたりは、19世紀に入ってかなり経っても依然として生き残っていた。1827年にアメリカを訪れたイギリス人のFrances Trollopeは、ミシシッピー川の蒸気船上で見た将軍、大佐そして少佐たちのアメリカ流の食事作法を見てショックを受けたと、こうしるしている。「恐ろしいナイフの使い方をし、しまいには刀身全体を口につっこむのではないかと思った」。その15年後にアメリカを旅したイギリスの作家Charles Dickensも目にした紳士たちの食事の光景を「(彼等は)幅広のナイフと2本歯のフォークをのどの奥までつっこむ。私はこれと同じ武器をのみこむ人など、きわめてうまい奇術師以外に見たことがない」と記している。アメリカで4本歯のフォークが一般的に用いられるようになるのは19世紀後半になってからだ。

 フォークとともに19世紀のアメリカのテーブル・マナーと食習慣に変化をもたらしたのがとり皿だ。イギリスでは17世紀の中頃にはとり皿から食べ、食卓で歓談する習慣が見られたが、植民地時代から18世紀末までの間は、アメリカに住む多くの世帯では、全員が同じ皿から食べることが一般的であった。とり皿が使われだすのが当たり前になるのは19世紀になってからだ。Mark Twainの小説The Adventures of Tom Sawyer(1876)にフォークと皿が出てくる一文がある。「食事の時もナイフとフォークを使わなければならず、ナプキンやコップや皿を用いなければならなかった」。18世紀になってイギリスで復活した晩餐会では食卓の周りに紳士と婦人が交互に坐ったが、前記の Frances Trollopeによれば、婦人のまじった晩餐会は、19世紀前半のアメリカでは珍しかった。

 女性は晩餐会の席にはふさわしくないと見なされていたのだ。1842年、ボストンで開かれたCharles Dickensの歓迎晩餐会にも女性はいなかった。もっとも次の滞在地ニューヨークでの歓迎パーテイには着飾った多くの女性が出席したけれど。

Tomato(トマト)この名はナハトル語のtomatl(ふくらむ果物)が語源で、それがスペイン語に入ってtomateとなり、それから英語に入ったものだ。アメリカで初めてこの言葉が文献に登場するのは1812年である。トマトはトウモロコシと同じように南米原産の作物であったが、トウモロコシと違い、インディアンたちはこの作物にほとんど興味を示さなかった。トマトをヨーロッパに初めて紹介したのは、1519年に中米のアステカ帝国を侵略したCortes一行だった。が、当初ヨーロッパ人もそれを栽培することにあまり心を動かさなかった。というのも、トマトはジャガイモやナスとおなじ茄子科の植物だったので、18世紀になるまでスペイン、ポルトガル、イタリア、フランスそしてイギリスでは健康に害があると考えられ、せいぜい観賞用植物として庭に植えられる程度であった。ヨーロッパ諸国のうち、トマトを食物として最初に受け入れたのは、おそらくイタリア人とスペイン人だろう。彼等はトマトを昔からあった料理とうまく組み合わせていった。その典型的な例がオリーブ油とタマネギで作ったトマトソースだ。

 ニューイングランドに入植した初期の人たちはイギリスと北ヨーロッパ出身だったので、本国の人と同じようにトマトを食べると癌あるいは脳炎といった病気になるのではないかと非常に恐れていた。しかし、1700年代から1800年代にかけて、トマトが北アメリカのいたるところで歓迎されなかったというわけでない。合衆国の南東部の人々は、植民地時代にフロリダに入植したスペインによって栽培されていたので、野菜としてのトマトの価値を早くから認めていた。後に大統領になるThomas Jeffersonは、1781年にモンティセロの自宅でトマト栽培した。おそらく彼は最初にこの有毒とみなされていた実を食べた人だろう。1802年にはイタリア人画家がマサチューセッツ州セーレムにトマトを紹介した記録が残っている。だが、19世紀初期の一般のアメリカ人の目には、トマト(当時のアメリカではtomataと綴られていた)はジャガイモと同じように有害な作物に映った。原因不明の伝染病がこのような不安をもっともらしくした。

 トマトに対するアメリカ人の態度が変わりはじめたのは、1830年頃だ。独立戦争の退役軍人Robert Johnsonは、一般の人々にトマトが安全な食べ物であることをわかってもらうために、ニュージャージー州セイレムの裁判所の階段の上で新鮮なトマトを食べた。見物人はいまにも苦しむだろう思っていたが、彼は苦しむことも、あとでそれがもとで病気になることもなかった。合衆国の移民の性格的変化(1865年頃から500万人のイタリア人が新移住民としたアメリカへ渡ってきた)も一役かって、1880年代にはトマトは一般的な食べ物になった。もっとも、20世紀初頭になっても依然それを癌と結びつけて考える人はいたけれど。Walt WhitmanのLeaves of Grassにtomatoの用例がある。「空の浮き雲を---海の波を---成長していくミントやホウレンソウやタマネギ、そしてトマトを---展示会のように高い入場料をとって見せよ」。 

(新井正一郎)