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チカーノ・パークとチカーノ壁画

 

 一般に「チカーノ」と呼ばれるメキシコ系アメリカ人たちは、米国のなかで自分たちのコミュニティや文化を表現できる場所や方法を追い求めてきた。そのひとつがチカーノ壁画といえよう。彼らは1960年代後半より、建造物の壁面や橋脚などに壁画を描くことによって、みずからの存在や自己表現および政治的抵抗などを表現してきた。また、コミュニティ内外の情報伝達の手段としても壁画を利用してきた。カリフォルニア州の最南西のサンディエゴ市にある公園、チカーノ・パークでは限られた敷地内にかなりのかずの壁画をみることができる。

 米国各地、とりわけカリフォルニア州ニューメキシコ州においてチカーノ壁画はたくさん描かれている。昨夏、筆者はカリフォルニア州ロサンゼルス市とサンディエゴ市を訪れ、いくつかの地域に点在する壁画をみる機会をえた。そのとき、チカーノ・パークに集合している壁画は他の地域に描かれているものと比して強烈なメッセージがこめられているという印象をもった。このことは、同公園の歴史的背景と所在地などに起因していると考えられる。

 ところで、米国のチカーノ壁画はメキシコ本国における「壁画運動」の影響を受けて展開した。「メキシコ革命」の時代、革命政権は芸術を通してメキシコ人としてのアイデンティティを再確認し、広く民衆を啓蒙する目的でこの芸術運動を奨励した。この運動を担った中心人物は、「メキシコ壁画運動の三巨匠」と呼ばれるリベラ、シケイロスおよびオロスコである。米国とメキシコ美術が最初に接触したのは、この「メキシコ壁画の三巨匠」がつぎつぎと米国政府に招待された1930年前後のことである。彼らは米国各地で、チカーノ壁画の基盤をつくっていくこととなるが、当時はチカーノ社会との接点はほとんど無かった。彼らは、当時米国政府がニューディール政策の一部としておこなわれた FAP(連邦美術計画)の一環として招待された。この計画には5,000人を超える芸術家が動員されたが、チカーノ芸術家たちに活躍の場はほとんだ提供されなかった。

 チカーノ壁画は、FAPが実行されたほぼ35年後の、60年代後半より描かれるようになる。当時、米国が全国的に公民権運動の高まりを見せていたころ、チカーノたちは「メキシコ壁画の三巨匠」の活動を再評価し自らの運動に取り入れたのである。彼らは、自分たちのコミュニティのなかに壁画やポスターを制作し、さまざまな情報、主張を同胞に伝えはじめた。つまり、壁画は当時のチカーノのマスメディアの役目を果たしていたのである。自分たちのコミュニティのなかでディスプレイされる壁画は、自分たちの歴史や神話を表現する、自画像的・歴史書的存在であり、自己認識・自己創造をはかる材料となっていった。

 チカーノ・パークはサンディエゴ市のチカーノ居住区であるバリオ・ローガン内の高速道路のインターステート5号と、コロナド橋の二つの大きな道路が交わる高架下に建設された比較的小さな市営の公園である。チカーノたちは1890年代初頭よりこの地域に定住をはじめ、最高時には2万人近くが居住していた。しかし、地域内に米海軍の要塞が建設され、都市計画法の改定で同地区が住居地域から工業地域へと移行されたことにより状況は一転した。さらに、1963年にはインターステート5号が同地区を完全に二分するかたちで建設された。そのため、コミュニティ内に大きな壁あるいは川ができてしまったようになり、しだいに東側と西側の交流が薄れていってしまった。1969年には、サンディエゴとコロナドを結ぶ陸橋が同地区の中心にランプを設けるかたちで建設された。つまり、工事などにより住人たちは立ち退きを強いられることとなったのである。このため同地区の人口は5,000人までに減少する結果となった。住人たちは、住居を奪われた多くの人たちが流出していくありさまをみて、このままではコミュニティが崩壊するのではないかという危機感を抱きはじめる。そこで、彼らはインターステート5号とコロナド橋のランプが交差する橋脚の下に、同地区のシンボルとなる公園を造るための土地を市に要請をしたのである。2年後の1970年に、市議会は公園設置のために1.8エーカーほどの土地をバリオ・ローガンに貸すこととなったのである。

 しかし、ほどなく同地区の公園として与えられた土地においてカリフォルニア高速道路パトロール隊の基地と駐車場の建設工事が開始した。このとき初めてチカーノたちは団結し、土地を守る動きにでた。9日間の座り込みの結果、市よりコミュニティに貸し出された土地を守り通したのである。チカーノ・パークとなる土地をパトロール隊から取り戻した祈念すべき1970年4月22日は、チカーノ・パーク・デーとされ毎年数千人のひとびとが集まる祝日となった。その公園に初めて壁画が描かれたのは、1973年のことであった。記念日に間に合うようにと4つの壁画が完成した。むろん、この壁画は突如として誕生したわけではない。コミュニティ内の芸術家たちが公園建設の数年前より構想を練っていたのである。4つの壁画はオフランプに描かれものであり、いずれも脚立を必要としない高さのものであったため、300人以上という大人数が制作に携わることができた。当時の壁画制作模様はサンディエゴ市の地元紙にも取上げられた。

 チカーノ・パークの初期の壁画作成に携わった壁画家のサルバドル・バラハスは、ここに描かれる壁画について「この作業はわれわれの考えやバックグラウンド=歴史を描き、ひとびとの思想や生活を反映している」と述べている。そして、「地区」つまり「コミュニティ」を、「人種」つまり「メキシコ系のひとびと」を反映し、「闘争」つまり自由のための「闘い」を反映しているものであるとも言っている。翌1974年には、あらたに5つの壁画も誕生した。

 1977年から78年にかけての時期はチカーノ・パークにおける壁画制作の第2期目と認識されている。1977年に20日間のムーラソン(muralton)と呼ばれる壁画制作活動において11枚もの新しい壁画が橋脚から橋脚へと描かれた。チカーノ・パークの中心地点となるところにキオスクが建設さ、多様な新しいアイデアやモチーフが壁画のなかに組み込まれた。さまざまなデザインやアイデアが絵のなかに表現されるようになったこのころから、チカーノ・パーク運営委員会が壁画家の下絵を吟味し、それがチカーノ・パークに相応しいものであるかを審議するようになった。そして、毎年のチカーノ・パーク・デーのスローガンが決められようになった。

 さて、チカーノ・パークを中心にしてチカーノ壁画について語ってきたが、その全容を明らかにするためにはまだまだ多くの課題が残されている。さしあたり、昨夏に集めた壁画の写真にさらに深い分析を加えることにより、この地域の壁画の特徴と主張を浮き彫りにするつもりだ。そして、今春4月に行われるチカーノ・パーク・デーにぜひとも参加し、最新の壁画を取材してくるとともに、この公園と壁画が、コミュニティ内の人たちにどのような意味をもち、機能し、役割を果たしているのかを調査してきたい。乞うご期待といったところである。

 (吉澤静香=同志社大学大学院)