Book Review

 

カルロス・フエンテス著『埋められた鏡−スペイン系アメリカの文化と歴史』

   古賀林幸訳 中央公論社 1996年

 

 "1492年"と聞けば、誰しも「コロンブスの新大陸発見」と答えたくなるだろう。ところがイスパニア(スペイン・ラテンアメリカ)学研究の立場では、これにとどまず、/・レコンキスタ(国土再回復)の完成(グラナダ帝国の陥落)/・ユダヤ教徒の追放/・カスティジャ語文法書の編纂/まで意しておかなくてはならない。スペインはまさしくナショナルアイデンティティの大きな要素である帝国の言語(カスティジャ語=スペイン語)と宗教(カトリック教)を"新大陸"にもたらしたことになる。

 以後中南米は約300年間にわたる植民地期を経て、1820年を前後してその多くが宗主国スペインから独立を果たし、ヨーロッパ列強諸国や米国との関係史を展開するが、本書は、メキシコの文豪カルロス・フエンテス(1928年〜)が、スペインとスペイン系アメリカの過去−現在−未来を講評した、5部18章構成の400頁を越える大部な文化論である。

 メキシコ人によるメキシコ(人)のアイデンティティを探求した著作には、社会学者サムエル・ラモス『メキシコ人とは何か』(1934年、山田睦男・訳 新世界社1980年)、1990年度ノーベル文学賞のオクタビオ・パス『孤独の迷宮』(1950年、高山智博・熊谷明子訳 法政大学出版局1982年)そして現代ラテンアメリカを代表する作家カルロス・フエンテス『メヒコの時間』(1971年、西澤龍生・訳 新泉社1975年)などがあり、また、メキシコ革命を主題にしたものには、ジョン・リード『反乱するメキシコ』(1914年、野田隆・野村達郎・草間秀三郎訳、筑摩叢書1982年)やアントナン・アルトー『革命のメッセージ』(1971年、高橋純・坂原眞理・訳 白水社1996年)他がある。比較的新しいところでは、米国人ジャーナリスト、パトリック・オスター『メキシコ人(1989年、野田隆他・訳 晶文社1992年)は、ユニークかつ斬新な切り口で"メキシコ人像"を模索している。

 表題書は、「アメリカ発見500年」にちなんだ刊行であることから、スペイン−ラテンアメリカ−米国の相互関係が詳悉に解説されており、著者フエンテスのラテンアメリカ人としての矜持は、見事に一貫している。

「おのおのがキリスト教徒とユダヤ人とモロ人(イベリア半島に定住したイスラム教徒)の混合、白人と黒人とインディオの混合として、その要素のどれ一つ犠牲にする必要はない」(V−G)に明解なように、それはおよそ混血の論理、統合の思想で概括することができるだろう。キリスト教徒・イスラム教徒・ユダヤ教徒が共存し、相互に影響し合った特異な文化を擁するスペインは、1492年以降、今度は先住民インディオやアフリカ起源の黒人とも融合を重ね、限りなく文化的包括を進めてきたと主張する。

「混血」とは翻って、他者を排除・拒絶せず、むしろ相互に受容するものであり、両義性・多義性を特質とするものである。「われわれはインディオ、黒人、ヨーロッパ人だが、何よりも混血のメスティソである」、「スペインと新世界は、多元的文化が出会う中心地−排除ではなく統合の地である」(ともにV−Q)は、象徴的な評言である。"イベリア人、ケルト人、ギリシャ人、フェニキア人、カルタゴ人、ローマ人、ゴート人にアラブ人にユダヤ人の総合としてのスペイン人"を「中南米人の共通分母」(I−@)と説き、加えて「地中海文化」にも留意する。そのうえで「スペインはスペイン系アメリカ諸国の一員でもある」(V−P)と、相対的存在であることをも論述することも忘れてはいない。

 具体例を米・墨関係にたどれば、「メキシコとともに生きることを学びたいんです。メキシコを救うというのは嫌です」(カルロス・フエンテス『老いぼれグリンゴ(1985年、安藤哲行・訳 集英社文1994年)というように、著者はやはり、相対的な関係性を基調とした「共生」を重ねて提言していることになる。この小説『老いぼれグリンゴ』のみならず、『イスパニア図書』創刊号(1998年、行路社)でも「書評」として取り扱った『セルバンテスまたは読みの批判』(1976年、牛島信明・訳 水声社 1982年)等と併読すると、フエンテスの思想をさらに的確に把握することができるだろう。

 著者は自己確認の縁として、スペインと米国ヒスパニック社会の2つの文化理解を挙げている。1937年4月のドイツ軍機によるゲルニカ無差別爆撃からピカソの大作『ゲルニカ』が誕生したこと、つまり、「歴史の惨事を芸術の勝利に変容させるスペインの痛ましい才能」(V−P)やフランコ時代を経て「民主化」に向かい、今やヨーロッパ有数の経済成長率を誇る威信を畏敬するとともに、「スペインのみならずスペイン語圏全体に及ぶわれわれの未完の作業」(同)にも思いを馳せる。そしてE.U.加盟後、スペインが経済的繁栄を獲得するあまり「スペイン系アメリカの横顔を忘れてしまうこと」(同)をむしろ懸念する。著者のこの洞察は、深甚であり、『スペインの社会−変容する文化と伝統』(壽里順平・原輝史編、早稲田大学出版部、1998年)でも多くの執筆者が同様の論調を示しているとおりである。

 また、フエンテスのヒスパニックについての見解は、「経済や政治の分野にかぎられるわけではない。それはとりわけ文化にかかわる出来事である」(同)と実に簡明であり、わけても、"アジアやラテンアメリカへの扉"あるいは"メキシコシティに次ぐ世界第2のスペイン語人口の都市"=カリフォルニア・ロサンゼルスの今後の動向にも関心を寄せている。

 メキシコ(人)が、旧植民地側の複雑な感情表出として「スペインへの強い憧れと誇り」(エンシーナス弥生『メキシコ人』文芸社、2001年)を持ち合わせることは、大いにうなづける。ましてメキシコには、経済大国"北方の巨人"と直に隣接する厳しさがある。

 19世紀後半から20世紀初頭のポルフィリオ・ディアス大統領時代のメキシコにまつわる俗言、《米国に近づくことは神から遠ざかること》はあまりにも有名だが、この場合、"神"とはスペイン−ラテンアメリカ文化と読み換えることが可能だろう。

 著者はこの課題を相対化による統合で乗り超えようとしている。これは、まさにカルロス・フエンテスが幼児期より心酔し現在に至っても愛読してやまない、黄金世紀の最高傑作セルバンテス著『ドン・キホーテ』の思想とも通底する。

 最後にこれだけの大著を理解しやすい日本語に置き換えた訳者の力量は、相応に高く評価されるべきことを付言しておく。

             (片倉充造)