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「アメリカス」とフォークナーの文学

―『アブサロム、アブサロム!』を巡って―

大 橋 健 三 郎

 私は、「アメリカス」というものの構造をまだよく掴み得ていないが、それでも一応「アメリカ」の多層性という現実を思いながら、永らく親しんできたウィリアム・フォークナーの作品を改めて見直すと、直ちに彼の中期の代表作である『アブサロム、アブサロム!』(1936)の中の、次のような場面がある迫力をもって脳裡に浮かび上がってくる。説明は後に回して、まず引用から始めてみよう。――

  . . . . . .二人とも若く、共に同じ年の生れ―一人はアルバーターに、今一人はミシシッピーに、大陸の半分を隔てて生れたが、それでもあの「大陸縦断水路」( Continental Trough )、即ちあの「河」によって、一種の地理的変質といった形でどうやら繋がり、結びつけられていた。――その「河」は、みずから地質的臍の緒をなしている自然の土地を流れているばかりでなく、またその力の及ぶ範囲の生き物の精神的生命の中を流れているだけでなく、たとえこれらの生き物の中には、シュリーヴのように一度もそれを見たこともない者がいるとは言え、まさしく緯度や温度を嘲笑する「環境」そのものに他ならないのだ(VII)。――

 フォークナー流の、彼の中期の最も複雑微妙な想像力を駆使した文章だから、すっと頭に入ってこないもどかしさがあるが、しかしそれだけに、前後の文脈を取りこんでじっくり噛みしめながら読むと、思いがけなく深い人間と自然の文化地理的関りを捉えた文章と言うことができる。ここに「二人」とあるのは、片や米大陸最北部はカナダのアルバータ州生れのシュリーヴ・マッキャノン、片やその対極と言うべき合衆国は深南部ミシシッピー州生れのクェンティン・コンプソン。彼らは、それぞれ故郷を離れて、合衆国の文化的中心となってきたマサチューセッツ州ケンブリッジのハーヴァード大学で偶然出会い、クェンティンの故郷ヨクナパトーファ郡ジェファソン町の、トマス・サトペンという、かつて南北戦争後の南部荒廃の中で激烈な運命に出会った象徴的な人物について、問いかけ語り合ってこの小説の物語を啓示してゆくのだ。

 ところで、その物語は差し置き、まず上の引用文に含まれている、北米大陸のいわば極北とその対極を繋ぎ貫く長大な地理的、そして自然の「環境」のイメージに注目すると、「河」とあるのはミシシッピー川のことだが、実際地図を眺めてみるとこの川は、それへと流れこむミズーリ川と共に、概略大陸を南北に貫く一種巨大な ‘trough’をなしている。‘trough’とは、飼葉桶や桶のような形の物を言い、地質学的には「地溝」、ここでは「水路」というのが当たるが、フォークナーはただの地形を考えているのではない。全く文化圏を異にし、互いに相手の環境に無知な人間をも、深い所で精神的に結びつける心の水路を通じて、二人の青年シュリーヴとクェンティンが長い問答の形で、かのサトペンの運命の象徴的意味を浮かび上がらせるのだから、これはただにアメリカ南部の物語というより、アメリカ深南部という閉ざされた社会の人間の運命の意味を、「アメリカス」的普遍的な視角から浮彫にした文学と言うべきであろう。

 しかも、これはただ精神的な深さといった抽象的な事柄ではない。フォークナーは、第一次大戦の終る年(1918)の六月英国空軍に志願し、士官候補生としてカナダのトロントで訓練を受けたことがある。まもなく休暇で、操縦桿も握ることなく除隊になったらしいが、むしろこんな些細な体験を二十年近く後の作品で、上述のような「アメリカス」的視角へと拡大し得た所に、彼の偉さ、もしくは凄さがあると言わなければならない。そればかりでなく、彼はこの小説の主人公サトペンを、少年の頃ハイチ島へ送り出して特異な運命を体験させ、中央アメリカという文化地理的な地域の象徴的な意味をも、この作品の奥深くに取りこんでいるのだ。その少年の運命の内容については、いわゆる「プア・ホワイト」という階級制度上の、そして黒人差別という人種上の深刻な問題が深く絡んでいるということ以上に、詳しく述べる余裕はないが、それが「アメリカス」という一種「グローバル」な形で作品に織りこまれている所にますますこの小説が幅広く底深いものになってゆく理由があるのである。

 おそらくそうした特質が、この作品のみならず彼の文学全体に感得されるからこそ、フォークナーの文学は、欧米ばかりでなく、いわゆる第三世界、「アメリカス」の関係で言えば特にラテン・アメリカの作家に深い衝迫を与えたのに違いない。それはただの影響といったものではなく、「アメリカス」(その彼方には「世界」がある)という広いテキスト及びコンテキストの中での共鳴もしくは連動と言うべきものである。フォークナーは、1962年に没したが、彼の文学の「アメリカス」的広さ、深さは、彼の生前から死後にかけて長く中南米文学と奥深く呼応し合うことになり、かの‘trough’は事実上中南米まで延びていたことになるのだ。

 今少し具体的に述べれば、例えばコロンビアのガルシア=マルケスは、フォークナーのジェファソンを思わせるマコンドの町を設定し、自分とフォークナーとの類似点は「偶然の似かよい」などでなく、「文学的な面よりも地理的な面」であると言い切っているし(メンドーサによるインタヴュー―『すばる』(1983年8月)、また京都大学大学院教授若島正氏の、昨年度フォークナー協会全国大会のシンポジアムにおける口頭発表、「フォークナーとラテン・アメリカの作家たち」によると、ペルーのバルガス=ジョサは、フォークナーの深南部とラテン・アメリカの世界には、共に「二つの異なる歴史伝統、二つの異なる人種」があって、「偏見と暴力」を醸成し、「過去の驚くべき重み」によって、「産業化以前、あるいは少なくとも産業化や、現代化、都市化を拒む世界」であると述べているという(フォークナー協会機関誌『フォークナー』第3号)。

 他にも、先駆的なフォークナー導入者、アルゼンチンのボルヘスは言うまでもなく、キューバのカルペンティエールやカブレラ=インファンテ等多くのフォークナー支持者の名が擧げられているが、こうしたことはただのフォークナー文学受け入れなのではなく、むしろ「アメリカス」の文化的環境的繋がりに根ざしたものだから、その根は深く、かつ広く、従ってまたさらに「世界」に向かって開かれていると言わなければならない。実際インドにもナーラヤンのような、ヨクナパトーファに似た架空の地域を設定する作家がいるし、我が国にはフォークナーの親近感を表明し、かつ逆説的にしろどこかでヨクナパトーファに通底する作品の世界を創り出した、井上光晴、中上健次のような作家がいるのだ(詳しくは、拙著『「頭」と「心」---日米の文学と近代』所収の「フォークナーと日本の小説」を参照されたい)。

 もちろん、フォークナー自身には当然個としての閉塞と孤絶の面もあった筈だが、それを逆に言えば、個としての人間と普遍的な世界との複雑微妙な結びつきが、彼の文学に類い稀な広さと深さを与えているのであり、そのことが今日の私たち自身の問題を鋭く照らし出してもいるのである。つまり私たち自身も、フォークナー文学の「アメリカス」的特質と決して無縁ではあり得ないということであろう。                

 (東京大学名誉教授)