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文学の中のアメリカ生活誌(29)

Stove(ストーブ)薪を燃料とするヨーロッパの最初のストーブは、1475年にフランスで製造された。その後ドイツ、オランダでもストーブ作りが行われたが、イギリスでストーブが生まれるのは1754年になってからだ。初期のアメリカ開拓民はストーブをあまり使用しなかった。その理由は鋳鉄を素材とするがゆえに暖炉とは違い、一人では作れなかったからだ。尤とも彼等はニューイングランドにたどりつく前、オランダに12年間も滞在していたので、ストーブを知っていた。実際彼等のうちの少数の者は入植したアメリカでストーブの実験をし、それを作った。アメリカで最初の鋳鉄製ストーブ―実際は火格子のない箱形火ばち―が作られたのはボストンの北の田舎町リンで、1644年のことだ。

 その後開放的な暖炉は作るにも、火をたくにも費用がかさむだけでなく、熱い空気が煙突から抜けてしまい、室内をほとんど暖めないことが分かると、人々はストーブの改良に力を注ぐようになった。そして1647年になると、John Clarke がオランダで広く使われていた蓋のある大きな鋳鉄製ストーブを製造した。1742年には文人でもあり、同時にアメリカ最初の偉大な発明家であった Benjamin Franklyn が従来のものより部屋が2倍暖まり、燃料用の薪も3分の1以上節約でき、且つ炎が見える前あき式ストーブを発明した。彼はこれを Pensylvania fire-place(ペンシルベニア式暖炉)と呼んだが、他の人々は Franklyn stove (フランクリンストーブ、1787年の言葉)と云った。ペンシルベニアのThomas知事はこの暖房装置の構造がひどく気に入り、彼に数年間の特許権を与えようとしたが、Franklynは自分も他人の発明の恩恵を受けているのだから、自分の発明も人が自由に活用すべきだ、と言った。その結果さまざまの種類のストーブが売り出され、1830年には田舎の家庭でもストーブを部屋の中央に設置するようになった。1815年、William T. James は部屋を暖めるだけでなく、料理もできるcookstove(料理用ストーブ)の特許を取った。このストーブはじきにボルチモアで製造されようになったので、Baltimore cook stove(ボルチモア料理ストーブ)とも呼ばれた。これは煮炊きの部分が腰の高さであったので、それまで暖炉の自在かぎに吊した重い鍋を使って料理していた主婦たちの過酷な仕事はずいぶん楽になった。1846年にはcooking range(料理用レンジ)という言葉が登場した。料理用レンジが初めてホワイトハウスに取り入れられたのは1851年、即ち第13代大統領 Millard Fillmore の時だった。従ってそれ以前の大統領が家族と共に口にした料理は暖炉で作ったものだった。

 ストーブは暖炉より効率がよく、快適だったとはいえ、暖炉が全く姿を消してしまったというわけはでない。ストーブの価格は当時の庶民の想像を超えるものであったし、裕福な人々のなかにはストーブは部屋を乾燥させ、息苦しくし、時には激しい頭痛を引き起こす危険なredhot monsters(真っ赤な怪物、イギリスの作家Charles Dickensが1842年にアメリカを訪問した折、列車の加熱したストーブを指して使った言葉)だ、と不満をもらす者がいたからだ。Mark Twainの短編The Invalid's Story(1882)の中に主人公の私が列車内のストーブに同じような文句を述べている箇所がある。「ストーブは熱くなり、列車内は息苦しくなるばかりだった。私は顔が青ざめ、吐き気をもようした」。

Suburbs (郊外)19世紀初めまでのマンハッタンは、工場や店と住居は近接しており、徒歩による通勤が普通であった。マンハッタンの境界線は都心から一時間で歩いて行ける距離のところと定められていた。人口が増えてくると、マンハッタンで働く人々は、鉄道馬車やフェリーを使って都市の外縁部にある自分の家(借家)から通勤するようになった。ちなみに1865年には、ブルックリンとマンハッタンの間に5分ごとにフェリーが運行され、約2万人の人達がマンハッタンへ通勤していたし、ニュージャージー側からもマンハッタンに向けて多くのフェリーが出ていた。それは徒歩の都市が終りに近づいていたことを意味した。だが、アメリカで職住分離をうながす郊外生活の歴史が本格的に始まるのは、鉄道が普及してからであった。ニューヨークのウエストチェスター郡やコネチカット州のフェアーフィールドなどは鉄道によって誕生した裕福層向けの郊外という代理田舎町として知られている。19世紀末に登場した市街電車は中産階級の人たちにも郊外へ移住したいという願望を呼びおこした。市電は鉄道と違い、都心にまで乗り入れることができ、また頻繁に停止できたので、いまや都市の中心部はオフィス、商業用地、貧困者や移民用の貧弱なアパートだけとなり、何百万というビジネスマンや商人や労働者とその家族は、ブルジョアジーにつづいてゴミゴミした都会の借家から建設業者の誇大広告にみられる「ピクチャレスクな都市近郊の一戸建て」へと引っ越していった。こうした新しい住宅地は、ブルジョアジー用に作りあげた高級住宅地とは違い、小規模の敷地に建てられた安普請のバンガロー様式の住宅だった。公園や運動施設もなかった。だが、彼等にとって汚れのない自然のなかの持ち家は象徴的な意味をもった。

 郊外の町が増えるにつれて、新しい言葉も生まれた。すなわち、1865年に誕生したcommunicate(通勤する)と commuter(通勤者)である。1890年代に入ると、人々は朝夕、都市と郊外を連結する列車や市電に押し寄せる通勤者の混雑ぶりを、rush hour(ラッシュ・アワー)と呼ぶようになる。作家 William Dean Howells は当時の通勤者を「昼は帰りの列車に乗るため仕事を急いで終わらせようとし(中略)ている近郊住民」としるしている。

 suburbという言葉は14世紀の前半にはすでにイギリスの文献に表われているが、当時は「都市の近くにある、あるいは場末臭い、すなわち空間的に下にある居住区」という侮辱的な意味で用いられていた。これは悪徳の場所がロンドン旧市街にあったためだ。suburbanは娼婦のことだった。ところが、19世紀中頃からアメリカに登場したsuburb、suburbanといった言葉には、当初侮辱的な意味は含まれていなかった。D. J. Boorstinの言葉を借りればsuburbanとは旧世界の独立自営農民の現代版ともいうべき新興中産階級の人々のことであり、suburbといえばそのような人だけが住む地区あるいは彼等に共通の精神状態を意味した。この suburb は Louisa May Alcott のLittle Women(1868-1869)に出てくる。「木立と芝生のある両方の家はまだ田園らしい郊外にあった」。

 1920年代に入ると、郊外とそこの居住者の特質とされる画一的な態度や価値観に対する批判が文学作品に現われてくる。次は中産階級の人々の世間体ばかりを気にする硬直した精神や愚鈍性を風刺した Sinclair Lewis のBabbit(1922)から。「機械的な仕事―ひどい建て方の家を早く売ってしまうだけの仕事、機械的な宗教―街の生活とは無縁の乾ききった非情な宗教(中略)静かにつきあって互いに知り合おうしない機械的な友情」。

(新井正一郎)