Nationality

チリのN君

 

 今年の春、南米のチリからN君という一人の少年が日本にやってきた。その目的は日本でJリーグの選手になりたいというものであった。彼が住んでいたチリ共和国は、南米大陸のとても細長い国である。その北端から南端までは4,250kmもあるのに、幅はわずか400kmほどもなく、太平洋とアンデス山脈に挟まれた縦長の気候の多様な国である。

 チリといえば、真っ先にイメージするのが、天理市内にも寄贈されているとおり、イースター島のモアイ像であろう。

 同国の主要産業は鉱業であるが、近年は日本の酒屋にもチリ産のワインが並ぶようになった。フランス産やイタリア産に勝るとも劣らないワインの味は格別で、その主なブランドは「Concha y Toro」「Santa Carolina」としてすでにお馴染みである。

 南米では珍しいく白人が多く、また教育水準も高い。他の南米諸国同様、サッカーが盛んで国内には、プロ・リーグがあり、代表チームは、国際試合にも数多く出場している。ちなみに、1998年にフランスで行われたワールドカップには、決勝トーナメントに進み、サモラノとサラスという2人のFWの選手が注目され「サ・サ」コンビとして、旋風を巻き起こしたのは記憶に新しいところである。

 そんなサッカーが盛んな土壌で育ったN君は、日本人の父とチリ人の母を持ち、日本国籍をもつことから、日本の地でプレーしたいというというものだった。

 当然プロのサッカー選手になるのは難しい。この「無謀」ともとれる目的のために、彼は遙か彼方の南米からはるばる一人でやってきたのだ。しかし、無謀だろうか?

 かつて、大航海時代というのがあった。同時代の考えからは「無謀」ともれるアメリカ大陸を目指した人がいた。世界一周に挑んだ人がいた。

 また、そのアメリカ大陸に思いをはせヨーロッパ各国からアメリカを目指した移民たちがいた。映画“海の上のピアニスト(原題 Legend of 1900)”のなかで霧の中から自由の女神が現れる時の人々の歓喜にあふれるワンシーンがある。

 他方、日本からアメリカ大陸へ生活のために移民として渡った人たちがいた。その子孫の中には、大統領として手腕をふるうまでに地域に根ざした例もある。大袈裟かもしれないが、時代を動かすパワーは、そうした「無謀」ともいえる果てしない夢なのかもしれない。人は皆、行動するときには、ともすれば、計画を練り、無難に事を進めるために、またよりよい人生を送るために、確実性を重んじる傾向にあるが、果たしてそれだけでいいのだろうか?

 あの大航海時代、数多くの人々が行動したのは、自己の信念、思考を依り処として行動した結果、ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸を近づけた。そこには、「無難」の考えはなく「無謀」と言うより、むしろ「希望」や「夢」があったのだろう。また、数多くの移民が「アメリカ大陸」へ向かう時、海の彼方に見える「自由の女神」。そう、彼等の中にみえるのは「希望」のはずだ。しかしそこに待ち受けるのは、つらい「現実」。その「現実」の中から見えてくる、「希望」を追い求めて「挑戦する」姿を想像するとき、一人一人が「歴史」を作っていくエネルギーを感じずにはいられない。

 日本にも国策で、農業移民としてアメリカ大陸に渡った人々がいた。彼等も同じく「理想」と「現実」の狭間にたちながら、また、戦争という歴史の荒波にもまれながらも、「生きていく」というエネルギーを心の奥底に秘めていた。そういった夢を追いかけて自国の外に生活の場を求めていく人々の心を知ると、N君を見たとき、改めて同じ「挑戦」という心を秘めているように思えた。しかし、その彼の夢を聞いた周囲の反応は冷ややかだった。「彼は日本人なので今回の行動は『帰国』」になる。自分の国に「帰る」のに特に理由はいらない。しかし周りの日本人の目には、彼は「外国人」であり、日本に「来た」理由を問い続ける。日本の高校に編入学の道を見つけようとしても、返事は決まって「どうして日本に『来た』のですか?」と聞いてくる。

 彼は「日本人なんです。帰国したんです。ただ両親がまだ外国にいるから、一人で帰ってきたが、ほかの帰国子女と同様に扱って欲しいです。」また必ず問われるのが、「日本語はしゃべれますか?」という言葉に関することであった。N君については彼は父親の仕事の転勤がこれまで多く、体系的な教育を受ける機会が乏しかったこと、そしてもし今日本の学校に編入できたとしても、他の生徒より年長なため、他生徒との関係が懸念されるという指摘がなされた。ここには、日本の「画一性」が現れている。そう、学校生活はただ単に勉強する場ではなく、他の生徒・学生とともに刺激しあう場でもあるのは承知しているが、年齢を理由に「学校生活の継続が懸念される」として、拒絶する学校側の姿勢には、甚だ憤りすら感じずにはいられない。仕事の都合上、日本人が、海外に家族で赴任する場合には、その子女が帰国後こういった不利益を被らないために、日本人学校に通わせ、家の中では、日本語で親子の会話をするのだということも側聞したことがある。日本人は、海外に行っても、「日本」を持っていくことが、帰国後も日本で生き残る道であることを知った。日本の社会はとうとう彼を日本人として、扱ってはくれなかった。

 南米に帰れば、彼は「日本人」の国籍を持つ「外国人」として、現地の外国人登録書のようなものを携帯しなければならない。彼はまだ自覚していないが、これから大人になって行くにつれて、様々な、制約を受けることだろう。何か、やりきれない気持ちがこみ上げてきた。仕方がなく彼は、夜間中学に籍を置き、日本語を習うこととなった。そこに集まってくる人は、在日外国人や戦争などで存分に勉強できなかった人たちで、仕事で疲れた体にむちうって、学びに来ているのである。

 彼とのやりとりの中でも、考え方の違いから機嫌が悪くなることも度々あったけれども、彼の目を通して、今まで見えなかったものが、見えてきたような気がする。

 今日も、テレビでは、地域紛争や民族間の対立が難民の流出を生み、他の国で迫害を受けたりしているニュースが報道されている。おそらく彼にはわからなかっただろうが、周辺で起こっている、このような「紛争」が、本人の耳に届かなかったのは不幸中の幸い(?)なのかもしれない。

 日本国籍をもつN君は、自分は「ブラジル人」だという。「自分は、お父さんがブラジルに滞在中に生まれたから」というのがその理由だそうだ。つい最近まで、彼のように外国人と日本人の間に生まれた人を「ハーフ」と呼んだ時期もあったが、この用語は近年、むしろ使われず、「ダブル」と言うそうだ。「ダブル」として日本とチリの二つの文化を共有し、自分のことを「ブラジル人だ」と自認するN君が、願わくば、日本とその国の架け橋になることを願ってやまない。奇しくもここ奈良県天理市とチリ国ラ・セレナ市は姉妹都市関係を結んでいる。何か強い因縁を感じざるをえないのは私だけだろうか?もうチリに「行って」しまった彼に尋ねようもないが、もしできるなら質問したい。「貴方の目に日本はどう映ったの?」

(天理参考館主事 加藤康人)