Scenery                                  

文学の中のアメリカ生活誌(28)

                                     

Fireplace(暖炉)イギリスからアメリカに渡ってきた初期の開拓者達が建てた最初の家は、間口20フィート、奥行き20フィートのワンルームの木造小屋であった。その建築はいたって簡単であった。すなわち、地面に堀った穴に4本の杭または丸太を立て、屋根をわらや芝でふき、外側に羽目板を張って小屋を包むだけという造り方であった。小屋には床板はなく、冬には凍った土間がむき出しだった。部屋の中央にはhearthとかfire hearth(1440年のイギリスの言い方で炉床の意味)と呼ばれた石やれんがを敷いた薪をもやす所があった。Fireplace(暖炉)はピルグリムたちがニューイングランドにたどりついてから35年経った1655年にやっとイギリスで生まれた語彙なので、初めのうちは入植者たちの家庭に暖炉はなかった。彼等の家庭に暖炉が設けられるようになるのは、18世紀に入ってからだ。壁面に押し込まれたような暖炉には、普通燃料を支えるgrate(火格子、1605年にラテン語のgrataからきた英語)、andirons(薪のせ台、1300年にイギリスでできた言葉だが、初期のものは動物を思わせる形に作られたので1840年頃からfire dogs ともいわれた)、poker(火かき棒、1534年)などが備わっていた。暖炉の上部にはmanteltree(マントルトリー、外套を意味するmantleからきた1482年の言葉)と呼ばれた大きな横木がはめ込まれてあった。主婦はそこにいろいろな長さの自在鈎を取り付け、その先に重い鍋や大きなやかん等を吊して料理を作った。が、料理の間は熱い炎の前で何回もかがんだり、炉の上の台所用品を持ち上げなければならなかったので、彼等の苦労は大変なものであった。Manteltreeと似た意味の言葉にmantelpiece, mantelboard, mantelshelf(いずれも炉棚)がある。Mantelpieceは1686年にできた言葉だが、ミシシッピー川以西ではあまり使用されなかった。1825年頃から使われたmantelboardは南部の田舎者の言葉と考えられた。ついでに記すと、firescreen(熱よけ衝立)という言葉はイギリスでは1758年に使われていたが、アメリカで知られるようになるのは1874年頃だ。もちろん貧しい家には、このような暖炉の熱い炎から体を守るための道具はなかった。

 1776年以後になると、独立戦争から戻ってきた兵士たちの家庭のマントルピースには銃が掛けられるようになった。その理由は暖炉を飾るというよりも、家族の一員が独立戦争に参戦したことを誇るためであった。マントルピースのあるなしにかかわらず、暖炉のある部屋は一家が身体を暖めることができる唯一の場所であることに変わりなかった。とはいえ薪は、部屋全体を暖めるにはあまり効率よい燃料でなかった。加えて入植してから数十年経った頃には、人口密度の高い農村地帯では森林が伐採され、暖炉用の薪は不足してしまった。薪の値段は高騰し、平均的な農家が一冬分の薪を購入することができなくなったのだ。誰もが暖炉より効率が良く、薪の使用が少なくてすむ暖房装置の創作に力を注ぐようになった。その結果生まれたのが、stove(ストーブ)である。作家Henry David ThoreauはEmersonから学んだ思想を実践するために、ウォールデン湖畔に自分の手で小屋を建て、1845年7月4日そこに移り住んだ。彼の著Walden(1854)によると、「間口10フィート、奥行き15フィート、柱の高さ8フィート、屋根裏部屋とクローゼット、両側に大き窓があり、2つの落とし戸、一方の端にドアがあり、反対側にレンガ造りのfireplaceがあった」。

Match(マッチ)植民地時代のニューイングランドの人々にとってmatch(ランプの芯を意味するラテン語のmyxaからきた言葉)とは、大砲やマスケット銃を発火させるために使う長い導火線のことであった。彼等は早い点火には大麻を、おそい点火には綿を用いた。18世紀になると、matchはパイプや燃料に火をつける細いfire stick(燃え木)を指す言葉になった。燃え木に火をつけることは、円形の火口箱に入っている火打ち石と火打ち金とほくちの助けをかりて行われた。もっとも、点火するには相当な技術がいった。19世紀のイギリスの作家Charles Dickensは、運がよくてもうまく火をとるには30分かかっただろうと言った。

 1827年に今のマッチの原形がイギリスで発明されたお陰で、点火は昔ながらの火口箱を使った場合と比べ、ずっと容易になった。その最初のものは発明者Wiliam CongreveにちなんでCongreves(擦りマッチ)と言った。アメリカでは1833年にコネチカット州のAlonzo Dwight Phillipsが燐を使ったphosphorous matches(燐マッチ)を発明し、その特許権を得た。こうした初期のマッチはfriction matches(摩擦マッチ)、scratch matches(擦りマッチ)、instantaneous matches(瞬間マッチ)と呼ばれた。従って"Got a light ?"(「火をもらった?」)という表現は1830年代に遡る。細い軸棒の端に少量の黄色の硫黄を塗ったlucifers(黄燐マッチ)も摩擦マッチの一種だ。Lucifersという言葉は作家Mark Twain のRoughing It (1870)のなかにでてくる。「私の家では節約なんてものはありません。(中略)おしゃぶり、主人の時計、家具を傷つけるための道具、子供が口にいれる黄燐マッチの費用(中略)だけでも一家の生活費に匹敵するのではないですか」。

 Matchmaker(マッチ製造人)は1643年にできた言葉で、元来は銃の導火線を作る人を指した。1851年にはこの言葉はイギリスではlucifers(黄燐マッチを製造する人の意味となった。ついでにしるすとmatchmakerのもう一つの意味の「結婚の仲人をする人」は1639年に英語に入った。1844年にはsafety match(安全マッチ)が開発された。これは従来の空気中で発火しやすい黄燐の代わりに自然発火しない赤燐をマッチ棒の頭薬とし、箱の側面には摩擦剤が塗布して売り出された。南北戦争の頃までには、家庭用マッチは普通小さなmatch safes(マッチ容器、1860年の言葉)に入れてガス灯受けの近くに置かれてあった。

 Book matches(はぎ取り式紙マッチ)はアメリカ産の言葉で、完成は1892年のフィラデルフィアの特許弁護士Joseph Puseyの登場まで待たなければならなかった。その後Diamond Match Company(ダイアモンド・マッチ社)が彼から特許権を買い取り、デザインを近代的にしたのが第1次大戦の頃、これによって紙タバコのブームが起きた。第1次大戦中にはやった言葉にthree on a match(不運)がある。その由来は戦場で兵士が3本のタバコに火をつけるほど長くマッチを燃やすと、敵の狙撃兵に狙い撃ちされてしまうことからと云われる。初期のcigarette lighter(タバコ用のライター)は危険なものが多かったが、1922年に改良されたDunhill lighter(ダンヒルライター)が世に出ると、一気に普及した。安い disposable lighter(使い捨てライター)は1970年代の中頃にあらわれた。

                       (新井正一郎)