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ヘミングウェイとキューバ

今 村 楯 夫

 アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)は62年の生涯の内、ほぼ3分の1にあたる22年間をカリブの海を隔てた隣国、キューバで過ごした。1952年、ヘミングウェイはそのカリブの海とキューバの小さな漁村コヒマルを舞台にわずか100頁あまりの小説を発表した。『老人と海』である。翌年ピューリッツア賞が与えられ、続いて1954年、それまでの文学的功績をたたえてノーベル文学賞が与えられた。

 その年の1月、アフリカ滞在中に2度の飛行機事故に遭遇し、瀕死の重傷を負い、以後、生涯、後遺症に悩まされることになる。また、健康上の理由でノーベル賞授賞式への出席を辞退した。キューバにとどまったヘミングウェイはサンフランシスコ・デ・パウラの自宅で非公式の祝いの席を設け、親しい友人たちに囲まれて、ささやかなパーティを開いた。ヘミングウェイは席上、「この賞はキューバに与えられたものである。『老人と海』はコヒマルの仲間の助けにより発想が生まれ、書かれたものであるからだ」と挨拶した。確かにノーベル賞受賞の最大のきっかけは『老人と海』の出版にあり、またヘミングウェイは心からその受賞を喜び、それをキューバの人びとと分かちあうことを素直に喜んでいた。

 『老人と海』の主人公サンチャゴはその大海原にひとり漕ぎだし、巨大なマカジキと闘いながら、ときに沈思黙考し、ときには独り言をつぶやく。そこには確かにひとりの漁師の英知が刻まれているが、同時にそれはヘミングウェイ自身が到達した人生観であり、宇宙観でもあった。その中にピューリタニズムでもカソリシズムでもなく、星や月や海に神々を見るような、いわば多神教とも原初的とも言える宗教観が見られる。一方で、もし、マカジキを捕えることができたら、コブレのマリアさまにお参りをする約束をするとつぶやく場面がある。

 「コブレのマリア」については実に興味深いことがある。このマリアとはキューバの第2の都市、ハバナよりはるか離れた東の地、サンチャゴ・デ・クーバの奥地の山上にある教会に祭られたマリア像のことである。ヘミングウェイ自身がこの地を訪れたという記録はない。また主人公サンチャゴが舟の上でコブレへの巡礼を約束はしたものの、それを果たしたようにはとれない。なぜなら、『老人と海』は海から戻ったサンチャゴが自分の小屋で眠っている姿を見て、少年マノーリンが涙を流す場面で途絶しているからだ。この老人の眠りをひとときの眠りと読むか、永遠の眠りととるかは読者に任されてはいるが、少なくとも巡礼に行ってはいない。

 一方、ノーベル賞を受賞したヘミングウェイは、受賞後、『老人と海』のサンチャゴが果たせなかった約束を、あたかも作者自らが履行するかのように、メダルをこのコブレの教会に寄贈したのである。

 なぜコブレのマリアなのか。かつて、この地方の3人の若い漁師が海で嵐に遭遇して、溺死寸前にマリアが現れ、彼らを岸辺まで導いてくれたという伝説が残されており、そのときのマリアが絢爛豪華な金糸をまとっていたことから、コブレの教会に金色に輝く衣装に包まれたマリア像が奉られ、いまなお、キューバの各地から巡礼者を集めている。(余談だが、教会の若い神父さんは「キューバは貧しいので、金糸の衣装を揃えることができないので、金色の糸で衣装を縫ったのです」と語ってくれた。)

 「コブレのマリア」はキューバの漁師たちにとっては、まさに守護神であり、かれらが最も崇拝するマリアである。そればかりではない。教会には小指ほどのミニチュアの義足、義手、身体の一部を形作る人形が礼拝堂の背後の壁に無数に献納されている。病を治癒された人びとのものだ。

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 1959年1月、フィデル・カストロの革命軍が首都を制圧し、バティスタ政権は崩壊した。ヘミングウェイはそのニュースをアイダホ州サン・ヴァレーの保養地で知らされ、またキューバの自宅は暫定政権下で守られることが約束された。革命戦争の初期の時期からヘミングウェイは革命を支持し、ピラール号の船内には革命運動のための武器弾薬を隠しておくことも黙認していた。

 いち早く革命政権を支持し、アメリカのマスコミによる反新政権キャンペーンに対抗し、伝えられる「虐殺」プロパガンダが過ちであることを地方紙に明言し、ラジオでも同様の意見を表明した。しかし、いずれの主張に対してもアメリカの主要新聞は黙殺した。それまでバティスタ政権を支え、キューバをアメリカ資本主義の配下におき、ハバナを歓楽の街に仕立て上げ、マフィアが闇の世界を支配していた時代はカストロ政権によって瓦解した。それはアメリカがキューバから暴利をむさぼる時代の終焉でもあった。

 ヘミングウェイは革命の3カ月後、キューバに一時帰国し、キューバ国民から熱狂的な歓迎を受け、出迎えたサンフランシスコ・デ・パウラの町民からはキューバ国旗が贈られた。それは革命に対する好意的な発言への感謝の表明であった。空港で贈られた旗にキスした一瞬を逃したカメラマンは、ヘミングウェイにキスの再演を依頼したところ、ヘミングウェイは憤然として「諸君、あのキスは本心からのものだ」と答え、その依頼を却下した。

 当時、ヘミングウェイはキューバの新聞「レボルシオン」の副編集長に向けて、カストロがアメリカ訪問の際にアメリカのマスコミと世論に対処するための助言を与えている。戦犯処刑の問題、キューバの経済機構変革に向けた法律の改定、とりわけ農地改革法の改定、外交政策、アメリカ国務省に対する断固たる態度、など多岐にわたる助言がなされた。いずれもキューバの未来を決定づける根幹に関わる事項であった。

 1961年、ヘミングウェイの死がキューバに伝えられると、ピラール号の停泊港コヒマルの漁民たちは、自分たちの船の碇を提供し、碇は溶かされヘミングウェイの胸像となり、新たに建立された漁港の前の小さな公園に台座を囲む小さなパビリオンの中に奉納された。それは友に対する、貧しい漁民たちの精一杯の弔辞であり、友情の印として現在も、ひっそりと立っている。またフィンカ・ビヒアと呼ばれるヘミングウェイ邸は遺言に基づき、キューバ政府に贈られ、現在、博物館として公開されている。

 死後、まもなく40年が過ぎようとする現在、キューバの人びとにとってヘミングウェイは依然として偉大な作家であり、偉大な友だ。一方、カストロ政権下におけるキューバに対するアメリカの制裁は現在も続いたままだ。正常な国交樹立までの道のりは険しい。

       (日本ヘミングウェイ協会会長・東京女子大学教授)