Scenery    

文学の中のアメリカ生活誌(27)

 

Boarding and Apartment(下宿とアパート) 1850年頃のニューヨークでは富裕階層は目抜き通りにあるbrownstone(褐色砂岩)の一戸建てに、貧しい者たち(主としてヨーロッパから流れこんでくる移民)はtenement(棟割住宅)と呼ばれた悪臭ただよう共同住宅に住んでいた。当時はまだ slum(悪臭あるどろどろしたきたないものを指すイングランドの方言に由来する)という言葉はなく、棟割住宅地区といえば、ひしめきあう長屋の一戸ごとに2、3家族が押し込まれている陽も射さない路地裏の貧民街と決まっていた。         

 中産階級はその中間形態の住まいであるホテルか上品な下宿屋で暮らしていた。だが、仮住まい的で、見知らぬ連中と一つ屋根の下で暮らすという点では棟割住宅の住民と大差はなかった。ニューヨークで何回かの下宿暮らしをしたことがある当時の文人Walt Whitmanは下宿生活を、かつての職人社会にみられた「自分」と「他者」との本来の親密な人間関係をなし崩しにするだけでなく、ストリート・ピープルに代表される根無し草のような人間を生みだす温床だ、とこう言い切っている。「無関心、空虚、怠惰、無礼、消化不良・・・これらは下宿生活が育みがちなものだ」。

 そんななか、豊かな資金にめぐまれた Rutherford Stuyvesant は、1869年に中産階級の家族ためのアパートとして「スタイヴサント・アパートメンツ」をニューヨーク18丁目に、Richard M. Hunt(パリで学んだ建築家)の設計によりつくった。別々の生活空間・独立性を保証するこの5階建ての個々の部屋は、パリの高級ホテルを連想させるということで当初は French flat(アパートの最初の呼び名で、1869年の言葉)、1880年代には単に flat(フラット)と呼ばれた。新しい建物への転向は、裕福階級から先にはじまった。1870年、出版者George P. Putmanといった金持ちらが「スタイヴサント・アパートメンツ」に移ったのを見て確信を強めた不動産業者たちは、6〜8階建ての外観こそ似ているものの、実態はもっと安い普請の建物をつくりだした。これは大方の予想に反して大当りし、ニューヨークの多くの中産階級があっというまにアパートの居住者に転向するようになった。彼等は月75ドルという家賃で、エレベーターもあるバスとキッチンつきの8部屋の生活空間で暮らすようになったのだ。より大きなフラットはまもなくapartment(アパート)と、またアパートの居住者は西部の岩窟に住むインディアンのイメージを借りて cliff dweller(岩窟住人、1890年代の俗語)と呼ばれた。 ついでにしるすと、walk-upはエレベーターがないため、歩いて階段を登らなければならない低層アパートを指す1920年頃の言葉である。エレベーター設備のあるアパートがあたりまえになってくると、アパートの住民たちの挨拶の言い方にも変化が起きた。「ついでの折はお立ち寄りください」の「立ち寄る」はdrop byではなくdrop upとなったのである。金めっき時代に極貧家族用に建てられた建物に dumbell tenement(ダンベル長屋、1879年の言葉)がある。James E. Ware設計によるこの長屋は、2,500平方フィート(約68坪)の敷地に多くの家族を詰め込めるように、ボディビルのダンベルに似た形に作られたためにこの名がつけられた。1891年になってもニューヨークの市民の3分の1が住んでいたこうした長屋は、当時の市の建築基準すれすれのものだったが、部屋は暗く、風通し、プライバシーも全く無視されていた。

The Civil War (南北戦争) 1775年から8 年間にわたる the American Revolution (アメリカ独立戦争)は、19世紀までは the War for Independence (独立戦争)とか the War with Britain(対英戦争)と呼ばれていた。1914 年に始まった第一次世界大戦は当初は作家S. Lewis が It Can't Happen Here (1935) で表現したように the Great War (世界大戦)という呼び方であった。第二次世界大戦後に現在の World War I という呼び名に落ちついた。その第二次世界大戦を時の大統領 Franklin Delano Roosevelt はthe War for Survival (生存戦争)と呼んだ。一般に物事の呼び方が現在のような名に定着するには暫く時を要する。

 1861 年に始まり1865 年に終結した南北戦争も、戦争が終わるまではいろいろな呼び方をされた。当初、南部の人々はこの戦いを the War Between the States (国家間戦争)といい、北部人は the War of the Rebellion(反逆戦争)といった。現在の the Civil War (南北戦争)という言葉は戦争後にできたのである。開戦後の最初の陸上の戦いは、1861年7月のことで、両軍はヴァージニア北部のブルランという川の背後の台地で戦った。戦争当初、両軍の兵はよく似た軍服―例えばアイオワやウィスコンシン出身の兵士らは南軍兵と同じ青色の制服―を着用していたので、戦場ではよく大混乱の場面が生じた。The Union Army(1861年の言葉で、北軍または合衆国軍の意味)がこの戦場で完敗したのは、突撃してくるヴァージニア33連隊を軍服の色を見て味方と思い込み、発砲しなかったためであった。ワシントンへの道は敗走する兵、武器、放棄された荷物であふれ、その中には夫人をつれて観戦に行った国会議員たちもいた。当時の文人Walt WhitmanのLeaves of Glassにも描かれているように、このブルランの戦いは、婦人や友人など多くの見物客に囲まれ、さんさんと輝く太陽とさわやかなそよ風の中で行われたのだ。

 黒人は早くから北軍に従軍していたとはいえ、彼等の任務はざんごうを掘ることや南軍部隊の陣営から遠く離れた町を見張るぐらいであった。北軍の多くの将軍たちは彼等を知力において劣った存在であり、銃を発砲することはおろか、弾丸を込めることもできない、と考えていたためだ。作業隊に編入されていた黒人に勇気を示す好機が到来するのは、北軍がフロリダ州ジャクソンビルを攻撃する1863年になってからだ。その時の黒人兵を指揮していたのは Thomas Wentworth Higginnson というマサチューセッツ生まれの奴隷廃止論者だった。彼は部下の黒人たちを信頼していた。もう少し云うと彼等は白人兵士と同じく南軍と戦う勇気があると主張した。将軍たちはなかなか彼の意見を受け入れなかった。が、彼の熱意に動かされ、やっと黒人たちを歩しょうの勤務からはずし、ジャクソンビルの攻撃に参加させる許可をだした。最初の黒人部隊であるマサチューセッツ第55歩兵部隊が組織される数カ月前のことである。さてジャクソンビルの会戦が始まると、Higginnsonが率いる黒人兵は南軍に激しい弾丸を浴びせた。一度 Higginnsonが部下に発砲を中止することを命じたことがあった。すると、一人の黒人兵が彼のところへかけより、自分はマスケット銃を撃つことで、政府から月10ドル支給されているのだ、と不満を言った。戦争が終結する頃には20万人近いこういう勇敢な黒人が北軍側で戦った。多くの会戦で形勢の変化をもたらすのに必要なのは兵の数である。もし北軍が黒人部隊を1863年より前に編成したなら、南北戦争はもっと早く終結し、62万人という恐ろしい数の戦死者を出さずにすんだかもしれない。     

(新井正一郎)