Research

植民地時代初期におけるメシーカ人のアイデンティティ

―テソソモクの『クロニカ・メシカヨトル』―

 メソアメリカ中央部では、12世紀トゥーラ(トルテカ国家の首都)崩壊と前後して、北方の放浪する諸部族集団が次々と中央高原へ南下してきた。これらの部族の中でも比較的遅くにメキシコ盆地へ到達したのがメシーカ人である。彼らは、様々な経緯の末、1325年(別の説によれば1345年)、テスココ湖上の小島にメシコ=テノチティトランの町を建設する。当時、メキシコ盆地の覇権を握っていたのは、テスココ湖西岸に位置するテパネカ人の都市アスカポツァルコだった。メシーカ人はアスカポツァルコの従属下に入り、戦争などで功績を上げながら次第に実力をつけていった。15世紀前半、メシーカ人は、アスカポツァルコと勢力を争っていたテスココ湖東岸の都市テスココと手を結び、アスカポツァルコ陥落に成功する。メシコ=テノチティトラン、テスココ、トラコパンの三都市による「三国同盟」の成立―いわゆるアステカ王国の始まり―である。

 権力の座に就いたメシーカ人貴族層は支配者としてのイデオロギーを確立していく。メシーカ王イツコアトルは、アスカポツァルコに対する勝利を機に改革を断行した。『フィレンツェ文書』には次のように記されている。

「…イツコアトルがメシコを治めていた時、それらの[メシーカ支配以前の]歴史書を焼却した。メシーカの統治者たちは意見をまとめ、次のように言った。『すべての人々が書物を知るのは望ましくない。…そこには多くの偽りが記されているからだ。』」(第10書、29章)

 こうして、新たな支配者層は自分たちにとって不都合な歴史を抹殺しようとした。その結果、起源の地アストランを出発し、部族神ウィツィロポチトリに導かれた放浪の人々がこの神の教えに従って町を建設し、やがて強大な国家を築き上げるという栄光の歴史―メシーカ正史―が確立されていった。

1519年、H・コルテス率いるスペイン人征服者たちが到来する。1521年8月13日、コルテス一行はメシコ=テノチティトランを陥れ、約3世紀にわたるスペイン植民地支配が始まることになる。しかし、メシコ陥落と同時にメシーカ正史のイデオロギーが消滅したわけではなかった。とりわけ注目に値するのはエルナンド・デ・アルバラード・テソソモクというメシーカ貴族の末裔が残したとされる歴史書である。

テソソモクは征服の数年後(1523〜24年頃)に生まれた。彼はコルテス到来時のメシーカ王、モクテスマ・ショコヨトルの孫に当たる。『クロニカ・メヒカーナ』(1598年)をスペイン語で、『クロニカ・メシカヨトル』(1609年)をナワトル語で執筆した。テノチティトランの統治者だった父の跡を継ぐことはなかったものの、王立アウディエンシア(聴訴院)のナワトル語通訳官を務め、1609年に死去した。

『クロニカ・メシカヨトル』* はナワトル語で書かれ、章区分はなされていない。アロンソ・フランコというメスティソ(混血)による語りの部分と、チマルパインという後世の写本作成者による注記が含まれているものの、基本的にテソソモクの作とされる。

 この歴史書の本編は1=火打ち石(1069年)にメシーカ人がアストランを出発するところから始まる。そして12=葦の年(1095年)にチコモストクを出発のする場面までがフランコによって語られる。その後、2=葦の年(1325年)にメシコ=テノチティトランを建設するところまでが第1部である。

 続く第2部は、1=葦の年(1363年)以後を扱っており、詳細なメシーカ王家の系譜が記されている。また、1521年の征服以降、1570年代までの歴代統治者とその家系に関する記述も含まれている。『クロニカ・メシカヨトル』の冒頭には読者に宛てた次のような言葉が見られる。

「この[我々に伝えられた古い]話は我々の財産である。我々が死んでも、息子たち、孫たち、我々の高貴な血[を引く者たち]、我々の子孫がそれを永遠に守っていけるように、我々はいま一度それを彼らに伝える。…我々の息子である諸君はここにそれを見るのだ。あなたたちは皆メシーカ人、テノチカ人である。諸君は、上述の偉大なる都市、シウダー・メシコ・テノチティトランの始まりについて知ることになるだろう。そこは水に囲まれ、イグサと葦の中にあり、我々テノチカ人が生まれ生活してきたところである。」 (p. 6)

 

 このように、『クロニカ・メシカヨトル』は後世のメシーカ人に自分たちの歴史を伝える目的で書かれた文書であった。他方、文中において、メシーカの部族神ウィツィロポチトリは「トラピク・テオトル(偽りの神)」、「ディアブロ(悪魔を意味するスペイン語の借用)」とも表現されている。つまり、『クロニカ・メシカヨトル』の作者は明らかにキリスト教徒としての立場を貫いている。その結果、メシーカ人の祖先がウィツィロポチトリに率いられて「約束の地」を探すべく出発したという歴史は、以下に引用するように異なった意味を帯びることになる。

「…ディオス[キリスト教の神、スペイン居住地を離れ、ここにやってきて各地へ広がるようお望みになられた。そうすれば、やがて真の光が届き、到達し、定着するからであった。すなわち、スペイン人たちが彼らを訪れ、彼らの生活を正し、その魂が救われることになるからであった。」 (pp. 12-13)

 

 つまり、メシーカ人の先祖が「約束の地」を求めてアストランから旅立ったのは、やがてスペイン人到来時に福音を知ることができるようにというキリスト教の神の意志によるというのである。このように説明すれば、メシーカ正史を語り続けること―メシーカ人としてのアイデンティティの維持―と植民地支配という現実を受け容れること―キリスト教徒としての立場―は矛盾しない。それゆえ、「メシーカ人」であり続けると同時に「キリスト教徒」であることが可能になるのだった。

 スペイン人による征服は「アステカ王国」を一夜にして消し去ったわけではなかった。メシーカ貴族の政治的支配権は失われたものの、彼らのメシーカ人としてのアイデンティティは征服から1世紀近くが経過しても維持されていた。『クロニカ・メシカヨトル』はその証である。

 約3世紀間にわたる植民地支配下において、被征服者であるインディオは過去の遺産を新たな状況に適応させ、様々な方法でそれを自分たちのものにしていった。多様な先住民の歴史文書の分析を進めていくことで、ただ「西洋化」の波にさらされるのではなく、戦略的に植民地時代を生き抜こうとする彼らの姿が明らかになってくるのではないだろうか。

(井上 幸孝=立命館大学非常勤講師)

注 Alvarado Tezozomoc, Fernando, Cronica mexicayotl, trad. de Adrian Leon, Mexico, UNAM, 1992, 2a. edicion.