Scenery

文学の中のアメリカ生活誌(25)

Bald Eagles (白頭ワシ)アメリカの国鳥は the bald eagle (白頭ワシ、ハゲワシ)である。アメリカに渡ってきたイギリス人移民が最初にこの鳥を見つけ、白頭ワシ という呼び名をつけた。彼等はbaldを羽毛のないの意味でなく、白いという意味で使ったのだ。成長すると頭部と首の羽が真っ白になるこの鳥は世界で最も大きな鳥で、特に雌は翼を広げると7 フィートちかくにもなる。その大きさ、強さから古来力の象徴とされ、古代エジプト王のなかにはこれを紋章、標章として用いた者もいた。

 アメリカの連邦議会は1782年にこの鳥を国鳥に選んだが、この結論をだすまでに徹底的な討論が行われた。最初に提案された鳥はワシであった。だが、多くの議員はワシは昔から王や帝国の象徴とされているので、新しい若い民主主義国にふさわしい鳥でないとして反対した。なかでも頑強な反対者はBenjamin Franklinであった。彼はワシは自分で食物を取らず、いつも他の鳥の餌を奪う悪質な、怠けものの鳥だと強く主張した。 Franklin は自分の言い分を通すために、ワシの不実を誇張して述べたことはいうまでもない。ワシは時々小さい鳥の餌を横取りすることはあるが、大抵は自分で食べものを探す鳥である。作家 John Steinbeck は The Gift(1937)の中でこう書いている。「丘の中ほどを黒い、大きなハゲワシが二羽、地上すれすれに飛んでいた。 . . .ジョデイはハゲワシが大嫌いだったが、害を加えていいというものではない。あれでハゲワシは、動物の死骸を片づけてくれるからだ」。

 ところで、Franklinが国鳥に推した鳥は七面鳥であった。彼によれば「ワシに比べると七面鳥は品のある鳥で、生粋のアメリカ産の鳥だ。ワシはどの国にもいるが、七面鳥はアメリカにしか見られない鳥」であった。双方の歩みよりで生まれた鳥が北アメリカにしか生息しないワシ、つまり前記の白頭ワシであった。アメリカ人は国鳥になったこの鳥を1789 年にAmerican eagle, 1847 年にはUnited States eagle と呼んだ。作家Ernest HemingwayはFranklinの七面鳥説を知っていたのか、A Farewell to Arms (1929)のなかでこんなふうに書いている。「アメリカはトルコに対して宣戦を布告するのか、と彼等はたずねた。それはどうか、七面鳥はアメリカの国鳥だから、とぼくは答えた」。

 1782年には白頭ワシは北アメリカの各地に沢山いた。だが、アメリカ人が西へ向かって激しく動きだすと、ハンターがこの鳥をむやみに撃ち落としたため、急速に数が減っていった。その結果、1940年に議会は白頭ワシの捕獲を禁じる法律を可決した。また、1972年にその頃普及しはじめたDDTのような殺虫剤が白頭ワシのえさや繁殖に悪影響をもたらすことが判明すると、議会はDDTの使用を禁止した。この2 つの法案によって白頭ワシの減少は食い止められ、生物学者の調査によると、今日のアメリカには4,000 羽から5,000羽の白頭ワシが生存している。      

Bohemians (伝統にとらわれない生きかたをする人)15世紀にボヘミア(チェコスロバキア西部の地方)から最初に西ヨーロッパに来たジプシー人はBohemians「ボヘミア人」(ドイツ語のBohmenから)と呼ばれた。というのは、ボヘミアはジプシーの故郷であると思われていたからだ。ジプシー人を指すこの語はその後、イギリスの作家William M. ThackerayのVanity Fair (1848)によってイギリス英語に紹介されると、因襲にとらわれないライフスタイルを持った人を意味するようになった。Vanity Fair は少女時代から父に代わって借金とりに応対したり、商人たちを手玉にとる利口な手管女Becky Sharpを中心にした小説である。彼女の手に負えない、自由奔放な性格は親ゆずりのものであった。作者はこう書いている。「彼等(ベキーの両親)は趣味や暮らしに関していえばBohemiansであった」。1849年にHenry Mueger が貧しさをものともせず、芸術に生きるパリの画家の生涯をロマンテックに描いた芝居Scenes de las Vie de Behemeを発表すると、この言葉は貧乏芸術家という新しい意味がつけ加わった。

 1850年代後半、ブロードウェイ689番地にあった「ファフズ」という地下の居酒屋は、当時のニューヨークのボヘミアンたちのたまり場であった。パリのボヘミアンたちが画家を中心としていたのとは対照的にに、「ファフズ」のボヘミアンたちは、もっぱらお上品なヤンキーの価値観を否定する作家の一団として知られていた。Ada Clare、Paul Hamilton Hayne、Fitz James O’Brien、William Winterらの無名文人は、貧しかったが、真剣に新しい文芸や文学界の有様を論じあい、それを一ペニー新聞や雑誌や週刊文芸誌に掲載していた。そして彼等の中心がキングといわれたHenry Clappであった。この時期、「ファフズ」とかかわりのあった作家に Walt Whitman がいた。当時の彼は1855年に自信を持って出版した処女作 Leaves of Grass が、世間ではほとんど理解されないものだったこともあって、このまま文芸の道を一筋に歩むか、演説という新たな世界に表現の場を見つけるか、その決断を迫られていた。黄昏になると、はでな労働者の服を身にまとって、貧乏芸術家たちが屯する「ファフズ」にしばしば出入りしていた彼は、反骨の文人として彼等にちょっと人気があった。もっとも、彼は彼等の放談の輪に加わるより、人目につかない隅のテーブルにすわり、彼等を眺めているほうが、多かった。年をとってから彼は「ファフズでの私の一番の楽しみは、. . . 眺め、見、ほとんど語らず、吸収することであった」と語っている。1860年代になると、ファフズは地方から来た訪問客がかならず立ち寄らないわけにはいかない場所になっていた。後に文壇の大御所になるWilliam Dean Howellsも故郷のオハイオ州から初めてニューヨークにきた時、ファフズを訪れている。「ホイットマンとの出会いは私の体験の中で最も重要なことだ」。

 中世以降、パリの学生たちの居住区は Latin Quarter(ラテン地区)と呼ばれた。この呼び方の起源はヨーロッパ各地からパリ大学に来ていた学生たちが、談話においてラテン語を共通語として使用しなければならなかったことにある。19世紀の中頃になると、若い、貧しい作家や芸術家が、安い家賃や食費を求めてこの学生の居住区に住みはじめた。かくして1870年代までには、ラテン地区は大都会の貧しい芸術家、作家、政治的反逆者たちの居住区を意味する一般的名称になった。第一次世界大戦の頃にはパリのセーヌ左岸が、1890年代にはニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジが、ラテン地区として知られ始めた。当時のグリニッチ・ヴィレッジの住人のなかには、後に著名な作家になるWillar Cather とTheodore Dreiserがいた。            

(新井正一郎)