Scenery

文学の中のアメリカ生活誌(24)

Marriage(結婚)、Honeymoon(新婚旅行)marriageはラテン語のmarritus (夫)からできた9世紀の言葉である。結婚、離婚は宗教的な行事か、それとも世俗的な行事か---これはイギリスでは昔から争われていた問題であった。アメリカの初期のイギリス人植民地はヴァージニアとニューイングランドであったが、この南と北の地域では結婚の観念が違っていた。ヴァージニアでは、英国教会が強い影響力をもっていたため、結婚を教会の諸儀式のなかに含め、花嫁の実家でとり行われる結婚式の司会は牧師に委ねなければならないとされた。一方ニューイングランドの清教徒たちは、英国教会から脱退して自分たちの教会を作ろうとした人々であったので、別の立場をとった。彼等は聖書のどこを読んでも結婚式は教会の儀式というようなことは書いてないと論じ、結婚式における牧師の司会を禁じた。彼等のうちでは結婚は民事の問題なので、植民地の知事の許可を受けさえすれば成立すると考えられていた。プリマス植民地の知事であったWilliam Bradfordは日記にそのことをしるしている。「結婚は民事に属し、......結婚式は植民地の知事によって司会されるのが当然である」。しかし1686年以降、ニューイングランドの総会議がこの問題は安全になったと認めると、知事だけでなく、牧師も婚姻の司会を行うことを許可するようになった。           

 Honeymoon(新婚旅行)という言葉は1546年から使われたが、その頃は新婚当初の1カ月という意味で、旅行という含みはなかった。アメリカで新婚旅行が始まるのは、長距離の旅が比較的に楽になった1820年代に入ってからだ。当時の新婚者は旅の途中にある観光地を訪れることがあったけれども、その主目的は花嫁の家で挙げた結婚式に出られなかった遠方の親族に結婚の挨拶に行くことにあった。当然ながら、多くの友人や親族が新婚夫婦の旅に同行した。新婚旅行が2人だけの旅行になるのは南北戦争後である。この頃の新婚者にとっての人気No.1の新婚旅行先は、ニューヨークとナイアガラの滝であった。もっとも、新婚者の中で新婚旅行に出かけることができるのは、少数の裕福な人々で、多くの新郎はほとんど翌日から仕事をした。

 19世紀後半になると、新婚旅行はhoneymoonよりも bridal tour あるいはwedding journey (tour) という語で表現されるようになった。例えばナイアガラ川へ新婚旅行に出かけるBasil とその妻Isabel を描いたWilliam Dean Howells の最初の小説『彼等の新婚旅行』(1874)の原題はTheir Wedding Journey である。作家Frank Norris もThe Octopus (1901) のなかでAnnixter の熱い想いを受け入れたHilma につぎのようにい言わせている。「お忙しいのに、何故wedding tour(新婚旅行)に行かなければならないの?」

 Shotgun weddeing(強制結婚)という言葉は、娘を妊娠させた男に娘の両親がショットガンで結婚を迫ったことに由来する。妻をbetter half というのは1838年からで、henpeckedは1920年代に生まれたアメリカの言い方で、妻の尻にしかれている夫の意味である。henpeckedを最初に描いたアメリカ作家は Wahington Irving である。ニューイングランドでは結婚することを1817年からto double, double up とも言った。 Fire escapes (非常階段)1860年2月2日、ロウアーマンハッタンのエルム通りに面した6階建てのtenement(棟割住宅、1850年代に現われた言葉)が火災にあった焼死または飛び降りたことが原因で20名の死者がでた。ニューヨーク市議会は、共同住宅法を可決し、8世帯以上を入居させる目的で建てられた共同住宅の外壁には不燃性の階段をとりつけよう命じた。1867年の市の最初の総合住宅法ともいうべき共同住宅条例は現在住んでいる家屋だけでなく、計画中の住宅にも部屋の大きさ、換気装置、衛生設備とともに非常階段の設置を規定した。といっても、そうした設備は金がかかり、棟割住宅の貧しい人々には無理な注文であった。

 1865年、ニューヨーク市の人口の7割に相当する50万人の移民は、約15,000戸の4、5 階建ての棟割住宅に詰め込まれていた。棟割住宅には下水道はもちろん、1870 年になっても上水道もなく、トイレも各階に1つしかないものを共用するケースが多かった。社会改良家たちはkennel(犬小屋)、warren(うさぎの飼育場)と呼び、移民たちの衛生状態の悪い暮らしを指摘した。その上当時の多家族用共同住宅はぐらぐらする木造建築だったので、火事にあったらひとたまりもなかった。他の都市の住宅法規も効果をあげえなかった。シカゴの消防局は1871年9月に同市を襲った火災を史上最大の災禍と呼んだ。建築中の製粉所から出火した火事は、折からの風にあおられてまる3日間近くに及んだ。この火事でシカゴの2,300エーカーが灰になった。10,000の人が家を失った。ある消防夫は次のように語った。「その地域は棟割住宅が占めていた。火はあっというまに燃え広がったので、人命を救うためには女性や子供らを窓から地面に投げ落とさなければならなかった」。

 1900年頃のニューヨーク市では、人口の3分の2が80,000戸以上の棟割住宅に住んでいた。作家Henry JamesはThe American Scenery (1903)のなかで友人が住むユダヤ地区の共同住宅は「細菌類に汚染されない立派な防火階段」がついていたと記しているけれども、大半の共同住宅はまだ非常階段が取り付けられていなかった。1901年に新法と呼ばれる新しい家屋法が制定された。これは共同住宅の各戸に火事避難用の装置を義務づけただけでなく、その非常階段は、危険な垂直のものでなく、斜めの階段でなければならない、と規定した。だが翌1902年のニューヨーク市の共同住宅局の報告によると、大半の棟割住宅は、非常口を備えておらず、また、あったとしても、安全を無視したものであった。理由は家主が資産価値の下落を恐れて、建物の正面に非常階段を設けることを嫌ったからだ。作家 O. Henry は A Midsummer Night’Dream のなかで冗談半分にこう書いている。「慈善家たちは家主に棟割住宅の非常階段をもっと広く法案の可決を議会に申請したが、その狙いは家族が一度に1人、2人でなく、一度に全員が死ぬためであった」。安全な非常階段が低家賃のほとんどの共同住宅に設置されるのは、1920年代になってからだ。夏になると、非常階段は空調のない共同住宅に住む人たちにとってかっこうの睡眠場所となった。玄関前の階段や歩道の木陰で夜を過ごす者もいたが、最適な所は風通しの良い非常階段であった。詩人Moshe L. Halpernは非常階段で眠る子供を木にぶらさがる猿にたとえている。           

(新井正一郎)