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       文学の中のアメリカ生活誌(23)        

 

Bed and Pajama(ベッドとパジャマ)bed(ベッド)、bedstead(寝台)、pallet(わらぶとん) などは、Pilgrims(巡礼者)と呼ばれた「メイフラワー号」の乗組員たちと一緒に海を渡って英国から入ってきた言葉だ。bedやfeather bed(羽毛ベット)は古い言葉で10世紀からイギリスで使われていた。bedroomはイギリスではPilgrimsがアメリカへ出航した頃、それまでのbed-chamber(寝室)という言葉に取って代わった言葉だ。ワンルームの家が大半であった植民地時代のニューイングランドでは、bedroomという語は独立した部屋でなく、部屋の隅のベッドを置く場所を指した。もっともベッドといっても、ござ、毛布、あるいは中にとうもろこしや藁を入れた丈夫な綿布のみだった。家族の者は昼間は部屋の脇に片づけられたこれらの敷物にくるまって固い床の上で寝たのだ。

 やがて開拓民のなかの大工仕事がたっしゃな者が jack bed(ジャック・ベッド)という脚のついたheadboard(頭板)を考案した。このベッドは短いものだったので人々は大きな枕を背に、上半身を起こした格好で寝むった。裕福な人は木の板に枠を取りつけ、その端から端へロープや皮ひもを縦横にはり巡らせ、その上にぼろ切れやとうもろこしの皮を詰めこんだマットレスを敷いた寝台を作らせた。18世紀になると、マットレスの上に羽布団を敷いた立派な feather bedが現われた。フランスに生まれ、革命前夜のアメリカに長く住んだJ.Hector St. John de CrervecoeurはLetters from an American Farmer (1782)のなかでこう書いている。「羽毛のベットで眠るか、熊の毛皮の上で眠るか、どっちにしようとかまわないです」。

 イギリスの古い風習にbundlingというのがあった。交際中の2人が、服を着けたままジャック・ベッドに入り、おしゃべりと抱擁が許されていたのである。アメリカではこの言葉は1630年に記録されている。限られた居住スペースのうえ、凍りつくように寒い冬は家族が暖炉の近くを占領していたので、娘と求婚者はこれだけが2人っきりになれ、また暖を取れる方法だった。1830年代に入り、二階建ての木造住宅が一般化すると、寝室はその位置を二階に移され、夫婦の個室を指すようになった。1830年代の後半にはfour poster(四柱式寝台)と呼ばれた四すみに柱があるカーテンつきの豪華なベットが登場した。これはカーテンがすきま風をふせいでくれるので快適なものであった。その寝台にちなんで「内密の話だが」を意味する俗語 between you and me ( and the bedpost)が1830年に生まれた。

 bedclothes(寝具)がシーツ、毛布などベッドを包むものを指して使われたように、night clothesは寝る人の身を包むもの、つまり寝間着を意味した。もっとも初期の開拓民のほとんどは寝間着など持っておらず、日中着ていた服のままベッドにもぐりこんだ。nightgownは最初は化粧着のことで、寝間着を指すようになるのは1820年代になってからだ。これ以前には寝間着はnight rail, night dress, night smockと言われた。ペルシャ語のpai(足)+jamab(ガウン)からできているPajama(パジャマ)は、もとはインド人が身につけただぶだぶの木綿の衣装を指した。イギリスの植民地住人は、1870年代にこれを本国にもちこんだ。イギリス、アメリカの両国では初めのうちパジャマは、ふだん着のことだったけれども、アメリカ人は1900年代に入る頃には寝間着を指して使うようになった。                               

 

Immigrants (移民)to immigrate(移住する)、 immigration (移住)という言い方はイギリスでは17世紀から使われていた。immigrant (移住民)は1789年のアメリカ産の言葉で、それ以前のイギリからの新来者はemigrant(移民), settler(開拓者)と呼ばれた 。植民地時代のイギリスからの移民の多くが土地取得といったある目的をもってアメリカに渡ってきたのとは対照的に、1820年以後の移住者は、目的(雇用)を求めての移動が大部分だった。ところでよく話題になるのが、1840年代以降の移民の出身地の変動だ。1840年から1880年にかけて流入した移民の出身地は北西部ヨーロッパであったが、1880年以降になるとヨーロッパ東部、南東部からの移民が主流をなした。一般に前者は旧移民、後者は新移民と呼ばれている。旧移民が家族単位で来て、識字率も高かったのに対し、新移民は独身者の割合が多く、識字率は低かった。今日のアメリカ人が移民という言葉を聞いて思い浮かべるのは、19世紀末から大量に押し寄せてきた出稼ぎ型の移民のほうだ。貧しい彼等に渡航の機会を与えたのは、蒸気船の発明と船会社同士の船賃の激しい値引き競争であった。

 旧移民の大部分がアメリカに着くと、中西部諸州に移住して土地を獲得し、自作農になったのに対し、新移民の多くは東部の工業都市、特にニューヨークで暮らしはじめた。というのはこの頃には未開地は殆どなくなっていたからだ。19世紀末までにニューヨークは500万の人口を有していたが、そのうちの8割は外国出生者またはその子であり、しかもその大多数がイタリア、ポーランド、ロシアからの人々であった。ニューヨーク生まれの作家Herman Melvilleが「われわれは国民というよりむしろ世界市民だ」と言ったように、ニューヨークは世界で最も多様性に富んだ民族構成を示していた。ユダヤ系イギリス人Israel Zangwill はこの現象をmelting pot (人種のるつぼ)と呼び、1908年に同名の戯曲を書いた。

 1892年から大型蒸気船のsteerage(3等船室)に詰め込まれて渡ってきた新移民は、それまでのキャッスル・ガーデンに代わって新たに建設されたマンハッタの南の島、エリス島(18 世紀のこの島の所有者の一人Samuel Ellisの名 から)の移民収容所で入国検査を受けた。検査に合格した移民のなかには外国系居住地に小さい店を開いたり、街頭で手押し車で物を売って成功し、native-born American(生粋のアメリカ人を意味する1830年代の言葉)と同等になった人もいたが、多くは汽船会社や鉄道会社が手配したマンハッタンや近くの都市の工場で低賃金労働者として一生を送った。彼等が集団で住みついたロワー・イーストサイド は、ポンベイのスラム街よりもひどい人口密度であった。陽も射さない、悪臭が充満する窓のないtenement(棟割長屋を指す1850年代の言葉)に7家族が詰めこまれた。この劣悪な住環境を改良するために、ニューヨーク市議会は寝室にはかならず窓を1つ設けることを定めた家屋法規をつくったが、実際にはその法律は効果をあげえず、喚気坑がつけられただけであった。O’Henryは1884 年にオープンして以来、美術家や作家の常宿になっていたチェルシー・ホテルに1907年から1 年間滞在し、強盗、売春、疫病が巣くうこの地区の落ちぶれた生活者の姿を愛情をこめて描いた作家だ。誕生日がきてもお祝いの贈り物を買えない若夫婦、貧しい病人を慰め、励ます隣人たちなど、いずれも当時のニューヨークの移民地区なかにうごめく貧しい移民の生活を物語らないものはない。                  

(新井正一郎)