Lecture

現代ペルーと日系人社会

 今日は南米ペルーの日系社会のお話をしますが、ペルーと日本の関係は歴史の教科書に載っていないような形で、17世紀ぐらいから非常に細い糸がずっとつながっていました。その頃からリマの町には日本人が住んでいることが分かっており、人口統計資料に記録されています。それから19世紀ぐらいになると、漂流民がペルーに行ったりしました。その当時から刊行されていました『エル・コメルシオ』というペルーの新聞に、1860年代、つまり明治維新の頃ですが、リマの町に住む日本人のことが時々記事になって出ていたりします。このように、われわれはほとんど知らないのですが、両国の細い糸は大航海時代から明治維新に至るまで、とぎれずに続いてきたわけです。ただそういう関係と現在の日系ペルー人社会とは直接のつながりはほとんどありません。

 現在のペルーにおける日系人社会のもとになっているのは、ちょうど100年前の1899年4月にペルーに上陸した、サトウキビ耕地への契約移民という集団だったのです。その790人の契約移民からはじまって、現在の8万とも10万とも言われる日系人社会が形成されていくわけです。日系人社会はブラジル、ボリビア、アルゼンチンなど他のラテンアメリカ諸国にもありますが、その中でペルーの場合特徴的なのは、日系人の90%以上が首都圏であるリマに集中していることです。

 ペルーという国は、基本的にわずかな海岸地域とアンデスを中心とする高原地域、そして大部分を占めるセルバ、密林地域に分かれています。この中で、現在でもペルーではリマに人口のおよそ3分の1が集中しているといわれています。首都に人口が集まることを首都の首位性といいますけれども、途上国であるほど首都の首位性が高まる傾向があります。

 ところが、19世紀末のリマの人口はせいぜい10万人だったのです。この1世紀の間にそれが80倍になっています。ちょうど、日本人の移民が入ったのがその当時1899年です。日本人の移民がペルーに入っていったイメージというのは、わずか10万人ぐらいしか住んでいないリマの町に数千人の日本人が入っていったという状況を想像していただければ良いと思います。

 それでは、リマという町がどういう人口の拡大をたどったかということをお話ししてみましょう。リマの町の拡大には、大きな2つの転機があったといわれています。ひとつは1910〜30年代におけるリマの都市としての拡大、これは一般的にはアウグスト・レギーアという人がいて、オンセーニオといいますけれども、いわば、開放主義的な政策で外資をどんどん導入していく。第一次世界大戦をきっかけにした一次産品、綿花とか砂糖の価格の上昇を背景にそれらを輸出していく、という形でペルー経済が急激に発展した時期であります。この1910年〜30年代の拡大期は、リマが10万の都市から30万になるという最初の発展期です。

 もう一つのリマの変化と言うのは1950年代〜60年代にかけてです。これもまた日本と似ているのですが朝鮮戦争とかありまして、同じように1948年からペルーではオドリヤという人が軍事独裁政権を行います。その政権はいい面と悪い面を持っています。

 1つ非常に経済的なメリットになったのは、いわゆるレッセフェールという開放主義経済で、アウグスト・レギーアと同じように外資をどんどん導入してくるというやり方で輸出経済を発展させていくわけです。それで資本家は非常に成長していく。そしてアメリカ資本がどんどん入ってくる時代が40年代〜50年代、そして60年代半ばにかけての時期があったわけです。地方から都市への人口流入が前の1910年〜30年代の流入の時とは比較にならないスピードで高原地域から海岸地域、とくにリマの首都圏へ人々が流れてくるようになったのです。こういった人々がリマの町の周辺にどんどん貧民街を造り上げていく。この地域をバリヤーダスといいます。この人たちがリマの人口の大部分を占めるように変わっていきます。こうなるとリマの町は、リメーニョの町からチョロの町になっていく。チョロというのは山から降りてきた人達のことで、日本だと「田舎もの」だとか「おのぼりさん」とかいますけれども、そういうちょっと差別を込めた言葉が使われたのです。アンデス地域の文化をもつ人達が海岸地域に出てきて生活を始めていく。そして、チョロという言葉が生まれてくる。そういうチョロの町に現代のリマが変わってくる。

この2つの時期はその意味でリマの拡大といっても性格は全然違うわけです。日本人が入っていったのはじつはその最初の時期でした。2番目の時期にはペルーは日本からの集団移民を一切認めていません。ブラジルのような戦後の後続移民が非常に少ないわけです。

 さてこの前者の時期に日本人がどうやって入っていったかということをみていきますと、「契約移民」と「呼び寄せ移民」という2つの種類があります。契約移民は基本的に農業労働者としてちゃんと日本をでるときに、どこの土地でどういう条件で働くか何年間契約するかということを全部決めた上で渡ってくる人達をいいます。呼び寄せはある程度定着した人に呼ばれていくという形になります。結論からいいますと、日系社会の場合にこの急激な上昇は契約移民の上昇というよりも、日本から呼び寄せ移民が大量に入っていって、その人たちがどんどん増えていっていたことに起因します。

 ともかく、結論的にいいますと、ここで急激に増えたのはリマの町の拡大と一致していたということです。無理矢理はいっていったのではなくて、リマの町が広がっていくのに合わせて、日本人が入っていったわけです。北米などへの移民とは全然違うわけです。まさにリマで人口が増えそれに応える形、日本人が小さな商売を開いていったのです。その意味では必要な存在だったわけです。つまりリマの日系人社会は出来上がった町に入っていったのではなく、リマの町が広がるスピードに合わせるように入っていったのです。ペルーという国はそういう性向を持っています。外国人移民と一緒に町が造り上げられていっているのです。その点をとくに強調しておきたいと思います。

 さて、現在はそれがどういう形になっているのか。2番目のリマの人口の増加は1950〜60年代以降急激に起こったわけですけれども、それによって、かつては殆ど砂漠のようなところにどんどん家が出来上がっていきました。いわゆるバリアーダスという地域、その後はそのプエブロホーベンだとかアセンタミエントウマーノだとか色んな呼び方をしますけれども、そういう貧民街が郊外地域に広がっていったのです。

 では人口が800万になろうとしているリマの町の中で日系人はどういう人口の分布をしているのか。簡単にいってしまえば日系人はほとんど貧民街に住んでおりません。その意味では80年代終わり頃の日系人社会は、リマの町の中で中流階層としての地位をつかんでいたといえます。

 さらに、日系人社会にとって、1989年〜99年の10年間は日系移民の100周年記念ということよりも遙かに違う、大きな変化が起こっています。いうまでもなく出稼ぎを目的に日系ペルー人が大勢日本に向かったことです。いわゆるオーバーステイを含めて5万数千人のペルー国籍の方が日本に居住しています。公の統計はありませんから、何人と正確にいえませんけれども、おそらく日系人と呼ばれるカテゴリーに属する方はその中で約2万数千人ぐらいはいるのではないかと思います。89年にそういう現象が始まって現在までの間に日系人社会の中に非常に大きな変化が生まれました。要するに、日本から送られてきたお金で、家を改築するとか、最初のうちは小さなお店を運営するための資金を日本で稼ごうということもあったわけですが、現実にはそうは進まずに、フジモリ政権の開放主義経済政策のもとでは、小さな資本ではなかなか経済的な競争に勝てなくなってしまいました。日系人がかつてやったような小規模なレストランなどは近頃ほとんどつぶれています。その中で日系人の居住地域も今大きく様変わりしています。

 つまり新興住宅地の方に日系人口は移っていくので、現在のリマの町、巨大な800万になっているその大きなリマとは全然違ったグループとして、日系人社会は今動き始めています。その意味では非常に難しい位置にあります。どういう形でペルーの中で日系でありながらペルー人であるということに合わせていくのか。それから、かつてリマに住んでいたリマの町と自分を非常に近づけて考えることができた日系人が、今リマの町が大きく様変わりしていく中で、自分自身がリマとの距離感をとりずらくなってきています。リマの町がチョロの町になったときに、はたして日系人がチョロの文化に入っていけるかどうか。難しい課題として残されています。

 1930年代のリマの大衆と1990年のリマに住む大衆は、本質的に違うものがあります。30年代のリマの大衆の中に実は日本人の姿があった。ところが、現在のリマの大衆の中には日系人の姿がほとんどない。そして、フジモリ大統領は実はそのリマの人々を含めた大衆層に働きかけたわけです。そして、あれだけの支持を受けたました。その意味で日系人社会とフジモリ大統領との間にはかなりのスタンスの違いがでてきたわけです。これが今後どういうふうになっていくのかという点については、10年ぐらいかけてゆっくりと私は観察し続けて行きたいと思っています。

 それは、われわれ日本人自身がいったいどうやってこういう国際社会の中で生きて行くかという課題と共通しています。実は日本の中でも、われわれが現にいろんな国の人たちが働きに来ていて在日の人として自分たちのアイデンティティを主張するようになっていく。そして、いろんな国の人たちがいるその中でわれわれは一緒に生きていかなければならないわけです。そういう環境で生きて行く生き方を、ペルーの日系人社会がこれからどのような形で生きていくのかというのを見つめていくことで、私はきっといろんな教訓を日本人として学び取ることができるのではないかと思っています。

(柳田利夫・慶應義塾大学文学部教授)

「日本人ペルー移住百周年」記念行事の一環として、昨年11月6日天理で開催された講演の抄録