Special to the Newsletter

 

『ウォールデン』の章とセクション

               斎 藤 光

 

 『ウォールデン』は19世紀中期のアメリカ文学黄金時代が生んだ傑作であり、わが国では『森の生活』という副題の方で知られている。著者ヘンリー・D・ソローはエマソンの弟子とよく云われてきたが、最近の日本では師より弟子の方がよく読まれている。エコロジーの重要性に刺激されて、見直されてきた自然文学(最近はとくに「ネイチャー・ライティング」と云われている)の源流とも云うべきソローが、注目を引くようになったのは当然であろう。

 そのソローの代表作『ウォールデン』の目次を見ると、Chapterという語も、順番の数字もつけずに、18篇のエッセーが並んでいる。冒頭の「経済」を第1章「経済」と書かれることも、ましてや簡単に「第1章」ですまされることも、ソローは好まなかったであろう。しかし目次の最後に「むすび(Conclusion)」とあるから、この書物が雑然とウォールデン湖や湖畔についてのエッセーを集めただけのものではなく、一貫した主題があり、従って最後には、単なる「あとがき」ではなく、「結論」と云ってよいもので締めているらしいことがわかるようになっている。

 20世紀になってからの『ウォールデン』論の大部分は、各エッセーを章と称しているから(もっとも Lauriat Lane は章をさけてセクションと称している)、この小文でも章と呼ぶことで、とくにソローの了解を求めるまでもない。しかし私は全体で18章あるなかの11章では、章がいくつかのセクションに分けてあることを云いたいので、少しややこしくなる。

 

 「『ウォールデン』第9章の第2セクションでは・・・」といった調子で書くと、ソローもいやな顔をするに違いない。しかし『ウォールデン』をよりよく理解するために、ソロー自身が明示しているセクション分けを重んじたいのだと訴えれば、ソローもしぶしぶ見逃してくれるであろう。

 第1章「経済」はこの作品全体の約4分の1を占めるほど長い章であるが、初版(メリル出版社のファクシミリ版による)ではパラグラフとパラグラフの間を、2行分あけて印刷したところが10箇所ある。つまり11のセクションに分けてある。この空行はソローが原稿の段階で指定したのだから、彼自身が第1章を11のセクションに分けたのだ。

 第1章にあるi, ii, iii, xの4つのセクションでは、右側の頁の一番上に、章題と同じ「経済」という文字が印刷されている。この文字はページ・ヘッドと云って、その頁に書かれている内容の見出しである。上記4つのセクション以外のページ・ヘッドは「経済」ではなく、iv「衣服」、v「住居」、vi「家を建てる」、ix「家具」、xi「慈善」等であって、セクションの標題としても立派に通用する。viiのページ・ヘッドは「建築と経済」とすればセクションの標題に使えるとしても、viiiは「経済、建築、経済、パン」と単語が並ぶことになるので、省略して「経済とパン」とすれば標題らしくなる。

 今ではもう10年も昔のことになるが、このページ・ヘッドについて,ソロー協会の会合からの帰途にK氏と話したことがあった。その後K氏から、例のページ・ヘッドについてハーディングに手紙を書いたら、あれはプリンターがやったことで、重要視はできないという返事が来たと知らされた。『ウォールデン』初版のページ・ヘッドは第1章以外はすべて章題をとっているから、全然問題はない。しかし第1章のページ・ヘッドを重要視しないことは、同時に第1章のセクション分けを軽視することになる。ハーディングの最後の労作『詳註版ウォールデン』(1995)では、第1章は7セクションであり、彼の旧作『ヴェリオーラム・ウォールデン』(1963)では9セクションになっている。初版のセクション分けは軽視されている。

 プリンターの作であるから重要視できないと云っても、ソローは校正刷りでこのページ・ヘッドを見ている。もし見当外れの言葉であったら、訂正したであろう。プリンストン版全集の『ウォールデン』には、ソローの訂正跡のある79頁目の校正刷りの写真が入っているが、そこのページ・ヘッドは PHILANTHROPY.となっている。恐らくハーディングと同様に、ソロー自身もページ・ヘッドを重要視してはいなかったろう。しかし少なくとも黙認はしていたわけだ。

 前述のように、第1章の4つのセクションのページ・ヘッドは章題と同じなので、自分のテキストにはもっと内容に即した標題をつけておきたい。それが『ウォールデン』精読のために役立つであろう。初版のページ・ヘッドにならい,出来るだけ本文の言葉を使い、かつ簡単なものがよい。とは云えプリンターもサジを投げて「経済」ですませたくらいで、よい標題が思いつかない。以下はあくまで仮題である。i「静かな絶望の生活から脱出しよう」、ii「最低の衣食住があれば簡素な生活ができる」、iii「森に入ったのは自然の真っ只中で生活し、かつ執筆の時間を確保するためだ」、x「年間6週間の労働で簡素な生活ができる」。第1章の章題が「経済」としてあるのは、ii や x で主張されている簡素な生活が、収入と支出の面から可能であることを具体的に述べているためでもある。

 第2章から最後の第18章までで、セクションに分けてある章は10あり、5セクションの章は1、4セクションの章は2、3セクションは2、あとはみな2セクションからなる。全体の要のように、中心近くに置かれている「湖」の章と、著者の復活と再生への強い志向が全篇で最も生々しく語られている「春」の章とは、4セクションになっている。起承転結とも少し違うし、ましてやソナタ形式の4つの楽章とも違うが、何か安定感を与える数である。私はこの2章がとくに好きである。4セクション構成であることにも多少関係があるかもしれない。それなのに、「春」の章をセクションなしに印刷してあるテキストが、手許の9冊のうち3冊もあるのは不可解である。しかもそのうち2冊は、ソロー研究の泰斗であるハーディングの詳註版と Carl Bode のヴァイキング・ポータブル版であるから、驚くほかない。

 第1章第4セクションの冒頭に、3月に小屋を建て始めたとあるから、この作品の季節は、春に始まり,ゆるやかに夏の数章に移りかわり、次に秋、冬と進み、「春」の章になって行く。この季節感は冬の3章では章題に表われており、各章の大きな特徴である。この四季による極めて大まかな枠組を、仮に「部」と称すれば、この作品は4部18章40セクションからなる、ということになる。

 岩波文庫の新訳『森の生活』は訳文もよい出来栄えであり、66枚のウォールデン周辺の写真も大変参考になる。ただ私としては、冒頭の「凡例」において、原作にはないがと断った上で、訳者の註のような意味をこめて、セクションごとに小見出しが入れてあったらよかったと思う。第1章の場合は、初版のページ・ヘッドの大部分がそのまま使えたであろう。     

(東京大学名誉教授)