Controversy

「文化戦争」に見るアメリカ史(5) 

 妊娠中絶非合法化の思想

 

もともと容認されていた妊娠中絶

 女性が妊娠を中絶することを選択する権利を認めた1973年の『ロウ対ウェイド』判決は、米国社会に大きなインパクトを与えた。ある法制史家は、20世紀後半に同判決をしのぐ反響を社会に与えたのは、人種別隔離教育を違憲であるとした1954年の『ブラウン対トピーカ教育委員会』判決だけであると述べた。[Harry H. Wellington, Interpreting the Constitution: The Supreme Court and the Process of Adjudication (New Haven: Yale University Press, 1990), 114.]連邦最高裁判所による女性の妊娠中絶の権利の承認は、大事件で法的前例の大きな変更と受けとめられたのであるが、ロウ判決ははたして、大変革だったのだろうかと疑問を呈する法学者もいる。[James C. Mohr, Abortion in America: The Origins and Evolution of National Policy, 1800-1900 (New York: Oxford University Press, 1978), 257-58.]実際に最高裁の判決文は、妊娠中絶は19世紀には、あるいはそれ以前から広く行われていて、しかも社会的に容認されていたと述べている。最高裁の代表意見を述べたブッラクマン陪席判事は、次のように述べた。

 「我々の憲法採択時に、また19世紀の大部分を通じて、妊娠中絶は現在効力を有する諸法令のもとにおける状態ほど嫌悪感を持って受け取られてはいなかった。言い換えれば、女性は今日の諸州における状態よりは、妊娠を中絶するかなり大幅な権利を享受していた。少なくとも妊娠の初期には、また妊娠の時期に縛られていなかった可能性もあるのだが、中絶を選択する権利は19世紀にかなり入った段階でもこの国に存在したのである。19世紀を過ぎてさえしばらくの間は、この国の法は初期の妊娠の中絶を、今よりは寛大に扱い続けたのである。」[Roe v. Wade, 410 U.S. 113 (1973), 140-41.]

 ブラックマン判事が指摘するように、19世紀の大部分を通じて妊娠中絶が容認されていたのであれば、我々は1970年代に中絶が合法化された原因を問う前にまず、社会的に容認され広く行われたいた妊娠中絶が19世紀後半になぜ、どのようにして非合法となったのかを問わなければならないだろう。ロウ判決とその反響があまりに大きく、19世紀におけるその後の論議があまりに激しいので、我々は18世紀、19世紀当時の状態を忘れがちなのである。

 

胎動の原則

 18世紀および19世紀初期の米国では、中絶はコモン・ローのもとで合法であった。違法であったのは、胎動(妊娠中の女性が感じる胎児の動きでほぼ妊娠4カ月目ぐらいで起こると言われている)以降の中絶だった。実際、abortion(妊娠中絶)という言葉は、胎動後の妊娠後期の流産のみを指すのであって、いわゆる妊娠初期の中絶は「それが slipped away(流れた)」とか、「月経が restored(回復した)」と表現されていた。当時は受胎の時、および胎動前の妊娠初期には子宮に一個の人間が存在するとはだれも思っておらず、カトリック教会ですら同様の見解であった。

 植民地時代および19世紀初期の女性は、受胎を月経の blocking(障害)または obstruction(閉塞)として捉え、何らかの処置が必要だと考えていた。当時は、人間の身体は危うい平衡を保っている体系で、気候や食生活の変化などで簡単に平衡が崩れると考えられていた。崩れた平衡は、身体に積極的に干渉して、時には手荒い方法で回復しなくてはならなかった。病気の治療に出血、火ぶくれ、下剤、嘔吐などの手段が使われたのは、その為である。月経の回復はこのような身体の理解と結びついていて、女性は嘔吐や下痢を催す薬を飲むなどの方法を採っていた。しかし、いったん胎動を感じたら、女性は胎児を出産まで維持する道徳的義務を認識した。[この項の説明は、Leslie J. Reagan, When Abortion Was a Crime: Women, Medicine, and Law in the United States, 1867-1973 (Berkeley and Los Angeles: University of California Press, 1997), 8-9.]

 

変わる中絶の目的--不名誉の回避から出生数の制限へ

 それでは、どんな人々がどんな目的で合法的中絶を行っていたのだろうか。法制史家モーアによれば、19世紀の最初の30年間に中絶を行った人々の圧倒的多数が、出産数を押さえるためではなく、私生児を生むことの社会的不名誉を恐れたからであるという。これは、当時の米国社会が大部分農村で産業社会以前の状態であったことを考慮すれば理解できる。[Ibid., 16-17.]しかし、19世紀も半ばまで来ると様子が変わってくる。19世紀には、家族のサイズの制限が大きな議論の対象になったが、その根本には、育てる子供の数を制限しようとする米国の母親・父親の「静かな決意」があったと法制史家グローズバーグは主張する。これは近代西洋社会に共通に見られる現象で、米国でも白人女性一人当たりの出生数は1800年の7.04人から1900年の3.56人への激減した。こうした意識の変化の正確な原因は明らかでないとしながらも、グローズバーグは、共和国の家庭のいくつかの特徴が原因考察のヒントとその法的影響を示唆してくれるとして、それらを列挙している。その特徴とは、1)子供が中心で少数の子供をていねいに育てるという米国の共和国家庭の特徴。2)「家庭内フェミニズム」と呼ばれる現象。つまり、女性は妊娠と性生活を自分で管理することにより自らの個性と家庭内の権威を主張しようと決意していた。3)市場資本主義から来る経済的動機。市場資本主義の体制内にあっては、大家族は負担となり、また節制と自己管理は美徳だった。4)共和国での結婚では愛情が中心で、出産と性的快楽の分離が促進された。5)それまで人間の力では管理できないと思われていた自然の力を克服しようとするアメリカ人のこだわりが出現しつつあったこと。[Michael Grossberg, メGuarding the Alter: Physiological Restrictions and the Rise of State Intervention in Matrimony,モ The American Journal of Legal History 24:3 (July 1982): 157.]

 

バースコントロール

 このようにして、米国の家庭に出産制限(バース・コントロール)という概念が到来することになるのだが、それはたちまち、米国共和国に育っていたもう一つの有力な概念、出産奨励主義とぶつかることになる。たとえば、マサチューセッツ州のある医師が避妊法の本を出版したところ、不正な性関係を促進するとして、起訴された。共和国の法制度はこの出産奨励主義を法制化し、避妊のための情報は「猥褻で犯罪を構成する」と規定された。ほとんどのアメリカ人にとって出産制限はプライベートなことで、それを公に主張することは、下品で過激なことだった。このように、出産制限という概念は、過激思想と判定され、また法的に猥褻と規定されたために、日陰者となり、公共の場から閉め出されてしまった。[Ibid., 157-59.]

 バースコントロールに関する最も詳細で幅広い研究はたぶん、リンダ・ゴードンのものであろう。ゴードンによれば、バースコントロールが社会に受け入れられるかどうかは、性と生殖を分離する道徳観念を持てるかどうかにかかっているが、初期資本主義社会の道徳観は、結婚と家族を高潔のモデルとして理想化した。性が家庭の中に閉じこめられたのは、資本主義社会では家族の経済的・社会的重要性が増したからであった。家庭はまず、子供に社会の価値観を教え込み社会の成員に育てるべく教育する第一義的手段となった。また、家庭は産業経済が個人に与える厳しい緊張を吸収する役割を要請された。同時に家庭内における男女の役割が分離され、男性は外で働き、女性が上記家庭の役割の精神的負担を担うようになった。この家庭内分業における男女の異なる役割をさらに特化するために、男女はただ単に異なるだけでなく、ほとんど正反対の性格を持つという見解が生まれてきた。このイデオロギーによれば、男女は「分離されども平等」であった。それはまた、より大きなイデオロギーの一部であって、そこでは女性は知的、芸術的、身体的潜在力では男性に劣ると考えられているけれども、道徳的により優れていて、その神聖さは母性という生得の能力から来るのだと主張された。[Linda Gordon, Womanユs Body, Womanユs Right: Birth Control in America (New York: Penguin Books, 1977), xi, 15, 20-21.]

 

反社会的行為の公的規制−モーアの「医師集団主役」説

 19世紀の米国がこのような精神世界であったとすれば、母性の放棄につながるバースコントロールは、反社会的行為ということになる。中でも人間に成長する可能性をもつ胎児を中絶する行為は極めて反社会的である。このような行為が社会的規制の対象になったのは、どのような力によるものだろうか。19世紀の米国の妊娠中絶の実態とその規制に関する最も理路整然とした分析は、前掲モーアによるものである。モーアは、19世紀半ば以降中絶非合法化成功のかなりの部分を米国医師集団の政治力に帰す。19世紀初期は、20世紀と違って医療にはイレギュラー(非正規医師)と呼ばれる民間療法士がバースコントロールや妊娠中絶を含む医療の分野に多数進出していて、いわゆるレギュラー(正規医師)にとって脅威となりつつあった。医師集団は医療高等教育を充実され、また立法府に働きかけ医療資格を厳格にするなどしてイレギュラーの排除に努めた。

 1847年の米国医療協会の設立は、医師の社会的地位確立の第一歩で、それはまた、数多くの社会政策の展開に「劇的な」影響を与えた。その政策の一つが中絶非合法化である。20世紀を通じて米国の医師の多くは、女性存在の主目的は出産であって、それに干渉する行為は結婚、家族、社会の将来に対する脅威であった。中絶はなかでも、この干渉の最たるものだった。1860年から1880年にかけて諸州で成立した反中絶法のほとんどは、妊娠への干渉は犯罪であり、国家が積極的に介入して制限すべきであるというレギュラーの主張を受け入れていた。モーアは、この中絶非合法化にあたり、米国の宗教団体がほとんど影響力を持たなかったとする一方で、「19世紀のレギュラーたちは彼ら自身の目的のために中絶問題を利用し、そうすることで米国政府により公共政策の重要な変遷において主役となった」と、モーアは断じている。[以上、モーアの説については彼の前掲著書、Mohr, 32-33, 147, 167, 195, 200, 257.]

 彼の分析は直線的で、その主張は直裁で理解しやすい。しかし、たとえ米国の医師集団が強大な政治力を持つに至ったとは言え、中絶容認政策の劇的転換の原因を一職業集団だけに帰してもいいものであろうか。

 歴史家でフェミニスト運動家でもあるゴードンは、医師集団だけでなく、広く社会的現象に目を配っている。彼女の分析は、ネオ・マルサス主義、人口問題、優生学、20世紀初頭の「人種の自殺」説、20世紀の「性革命」などを視野に取り込み、モーア説より広がりと奥行きがある。また、マイケル・グロースバークは、これら社会思想と医師集団の影響力をアメリカ法の変遷に反映・実現させるのに尽力した法律家集団の歴史的役割の分析にも力を入れている。反中絶法が次々に成立した19世紀後半は同時に、医師、法律家、歴史家などのプロフェッショナル集団が権威を確立して行く時期でもあるので、グローズバークのアプローチには説得力がある。この3人の視点を総合すると我々は、中絶非合法化実現の原因をよりよく理解できるのである。     

(山倉 明弘)