Scenery

文学の中のアメリカ生活誌(21)

 

 GI Joe (アメリカ兵)第1次世界大戦はdoughboy(米軍歩兵)という語を生みだしたが、第2次世界大戦の頃は男子兵の意味のGI Joe という語がはやった。この言葉が米兵の略語として初めて記録されたのは1942年である。GIは1920年代にはgalvanized iron (とたん板)の略字だったが、1935 年になると、下着、テント、トラックなど兵に支給された品のすべてに刻印された2文字 General Issue (官給品)の略語になった。同じ頃、奴とか男を指すJoeという言葉が一般に使われだした。たとえばごく普通の男性をJoe Blow, Joe Zilch と言った。1930年代には Joe College(典型的な男子学生)、1940 年代になるとa good Joe (いい奴)という表現がつくられた。こうしたなか、Dave Berger 中尉が陸軍刊行の週刊誌Yank(1942年6 月 )に掲載した漫画にこのGIとJoe とを組み合わせたGI Joe というキャラクターを描いたところ、たちまちアメリカ兵の代名詞となったのだ。以下は作家 Sinclair Lewis(シンクレア・ルイス)のWorld So Wide (1950)の一節である。「彼はAmerican GI(米国兵)、大学院生、白系ロシア人でいっぱいの学生のたまり場に連れて行かれた」。

 第2次大戦中に大はやりした歌に"Rosiee Riveter"(「リベット工場のロージィ」)がある。1920年代、工業の発展、消費者用の大量生産にともなって、アメリカ各地に大量組織販売を中心とする第3次産業が生まれると、多くの女性はこの産業が創出した新しい職場に進出するようになった。彼女等の活躍の場は、10セント・ストアの店員、紡績工場の女工、電話交換手、それに封筒の宛名書きといった女性職に限られていたが、1940年代に入ると、戦争で男子労働者が不足していた軍事工場で働くようになった。彼女等は飛行機の部品をリベット(びょう)で留めたり、銃を取り付ける仕事に専念した。1940年代は、女性の労働条件もかなり改善された時期であった。政府は男女同一賃金の政策を実施したし、工場も女性がスラックスをはいて就業することを許可するようになった。女性のニーズを先取りして、ニューヨークのメーシー、デトロイトのハドソンといった大手のデパートは店内にスラックスの売り場を設けた。この時期に「リベット工場のロージィ」という愛国歌がはやった。ロージィという名は実在の女子工員、Rosie Bonavita にちなんだもの。彼女は戦闘機の翼に6時間で3,345 個のリベットを打ちつけた。この歌がアメリカ全土に広まったおかげで、工場で働くすべての女性労働者(当時の全米労働人口の4分の1を占めていた)はロージィと言われるようになった。GIはみなリベット工場のロージィたちの奮闘を十分認識していたが、兵舎の壁やロッカーやヘルメットの内側に貼った女性の写真は、pin-up girls (ピンナップ・ガールズ、第2次大戦中兵士らが美人の写真を兵舎の壁にピンで留めたところから1943年にできた言葉)と言われた若い水着のモデルや女優であった。当時もっとも人気のあった美女は、白い水着で肩ごしにながめるポーズをした29才のBetty Grableであった。

 

 Long Horns and Cowboy(長角牛とカーボーイ)cowboy は古い言葉である。植民地時代にはつらい農業の仕事よりも楽な牛の放牧で生計をたてる開拓民を指す蔑称であった。現在のような意味で用いられるようになったのは、Joseph McCoyというヴァージニア出身の青年実業家が登場してからである。南北戦争直後、野性の長角牛が数百万頭群がっているテキサスには牛肉の市場がなかったので、テキサスの牧場主は牛の群れを追って、600マイル離れた北部の市場をめざして長旅をしていた。戦後の北部では牛が不足していたので、そこに運ばれた牛は100ポンドにつき8〜13ドルの値がついたからだ。1867年、29歳の McCoyは、建設中であったカンザス・パシフィック鉄道沿いの辺鄙な町、カンザス州アビリーンが南北を結ぶ牛の移動路と東西を結ぶ鉄道路が初めて交差する場所であることに目をつけ、その町を買い取った。ほどなくして彼はテキサスの長角牛をアビリーン駅まで連れてくるカーボーイには牛1頭につき40ドル払うと宣伝した。彼はこの駅までテキサスの牛を運んでくれば、あとは北部の市場まで鉄道輸送できると考えたのだ。彼の野心的な仕事は成功した。1870年代を通じてテキサスからアビリーンに向かう牛の移動道、チザム道は牛の群れであふれた。かくして彼はそれまで本通りが一本あるだけの、小さな眠っていたような町を一挙に酒場や銀行や立派なホテルや商店が立ち並ぶ cow town  (牛の町)に変えた。これはまた産業界の主役の交替(綿花から牛へ)を意味した。

 McCoyが南部の家畜商と北部の買い付け人とを結びつけた新しい商売で一躍富と名声を得たのとは対照的に、牛の群れを追うカーボーイの実際の生活は非常に苛酷なものであった。彼等は12人前後でチームを組み、2,500頭の牛の群れを秩序を保ちながら、アビリーンまでの3カ月間、大陸の中央を北上するのであった。先頭には輸送ルートをよく知っているカーボーイが立ち、もっとも熟練した者が群れの両脇をかため、群れが広がらないように、また牛同士がぶつからないようにした。最後尾のカーボーイの役割は弱い牛が脱落しないようにすることであったが、牛のものすごい砂ぼこりが口に入り、ひどく苦しいものでった。灼熱の太陽と雷雨のなかでの移動、インディアンの襲撃、突然の牛の群れの暴走、長い緊張した生活がもたらすカーボーイ同士の争いなど、道中にはさまざまな障害が待ち受けていた。彼等は毎日12〜18 時間の労働を強いられたが、賃金は月僅か25〜40ドルであった。彼等のなかにはアビリーンに着くと、拳銃をぶっぱなし、投げ縄をふりまわすなどして気晴しをする者も少なからずいたので、町の人々から嫌われる場合が多かった。こうしたカウボーイの否定的なイメージを大幅にゆがめ、全国的英雄に仕立てあげるにあたって影響を及ぼしたのは、2人の東部人だった。1人は西部を描いた代表的な画家Frederic Remingtonであった。彼はインディアンの討伐戦や牛を駆り集める作業に従事するカウボーイなどを題材にした数多くの絵を残したことはよく知られている。しかし、彼は現地に立って絵を描いた画家でなかった。太りすぎて馬に乗れなかった彼は、画室の中でイマージネイションだけで描いた。そうした彼には大平原や西部の住人はすべてロマンチックに映った。カウボーイを民衆的英雄にまつりあげたもう1人は作家 Owen Wister だ。彼は西部小説 The Virginian(1902)でカウボーイをはじめて勇気、個人主義の象徴として描いたので、たちまち好評を得、わずか4カ月で5,000部売れた。加えて1920年代に現われた西部劇映画は三文小説や西部小説のパターンを巧みに利用したため、いつしかカウボーイの数々のロマンチックなイメージがアメリカ人の意識に定着していった。

(新井正一郎)