Controversy

 

「文化戦争」に見るアメリカ史(4)

          ─ 妊娠中絶論争の史的文脈

 

 『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニスト、アン・クインドレンには、かつて妊娠中絶に関する討論会にパネリストとして出席した時の苦い思い出がある。アドレナリンがワインのように流れ、彼女はこの問題で二度と討論会には出ないと誓ったという。この論争が単に難しくて、対立が厳しく、個人攻撃的で意地悪いばかりではない。何時間討論してもお互いがその立場を一歩も譲らず、論争の出口が見えないのだ。まさに、これは「絶対的価値観同士の衝突」である。[Ann Quindlen, メThe Issue That Defies Agreement,モ New York Times, 3 June 1990, Late Edition, Final Section 7, p. 7, Column 1.]この様な事態に至った理由を考察しようとすると、我々はどうしても歴史を遡る必要がある。

 妊娠中絶論争はまた、米国社会と歴史を知るのに好個の教材である。妊娠中絶(およびそれに関連する出産調節)に対する社会的認識・評価が時代によって大きく異なることから、妊娠中絶および出産調節の考察は、アメリカ社会・歴史の考察につながる。したがって「文化戦争」の個々の事例を取り上げる考察において、妊娠中絶論争を最初に取り上げることにする。

 

初期アメリカ社会における女性の地位

 80年代始めから激しく闘わされている論争は、1973年の『ロウ対ウェイド事件』の最高裁判決が火をつけたと言っても過言ではない。ロウ判決以降、論争の両陣営は連邦および州の立法府に働きかけ、また司法の場で争い、論争は今日ますます激化している。その論争のあまりの激しさ、また判決の憲法上の意味があまりに重大なため、ともするとロウ判決以前の状態における重大な論点が見えにくくなっている。妊娠中絶の問題は、米国建国以来とくに19世紀においては、米国社会の中核と考えられた家庭をどのように統治するか、つまり米国社会をどう統治するかという問題と直結していたのである。そして家庭の統治の根底にあったのは、常に女性の地位をどう捉えるかという問題であった。従って、妊娠中絶論争の考察は、米国社会における女性の地位から始めるのが適当であろう。

 イギリス社会は、既婚女性を社会的尊敬を受ける地位においていた。ただしそれは、行為無能力(人が未成年、心神衰弱、有罪その他の理由で権利あるいは行為能力を欠くこと。財産法の分野では、ある当事者が他の当事者との間の一定の法律関係を変更する能力を欠くことを言う)と引き替えであった。この法律上の地位は、coverture(法的庇護状態)という言葉で表された。女性は結婚すると、夫と法的に合体してその法的存在を失い、彼女の財産権は夫に移行する。彼女は、契約も訴訟も行うことが出来なかった。女性を保護するというこだわりは、時には驚くべき結論に至った。たとえば女性が犯罪を犯しても、法的には夫に強制された結果であると解釈され、代わりに夫が裁かれた。妻が犯した不義密通により夫が鞭打ちと罰金の刑に付されると言う馬鹿げた事例すらあった。[Kermit L. Hall, The Magic Mirror: Law in American History (New York: Oxford University Press, 1989), 35]

 これに対し新大陸の植民地社会では、17世紀の農業社会という状況により、生産単位として家族の機能が強調され、既婚女性の経済的責任は重くなり、それに伴い法的人格が拡大された。この頃のアメリカには、有閑階級というものがなく、働く意欲と能力を持った女性の活動を規制する余裕がなかった。このように社会的機能の面では男性とほぼ平等になったが、社会的地位は相変わらず男性と平等ではなかった。不義密通で処罰されるのはもっぱら女性であった。女性に較べ男性の方が離婚しやすく、また経済的自立、政治的・宗教的指導性、識字、地理的移動性を獲得しやすかった。[Ibid., 35-37]

 

経済発展のための「エネルギーの解放」説

 19世紀は米国において資本主義経済が発達し社会が大きく変貌を始める。特に南北戦争以降はそれ以前から始まっていた都市化に拍車がかかり、19世紀末には米国は農業中心から大工業国へと発展する。19世紀中葉に多くの「偉大な」裁判官が庶民の道徳観や公正感よりは法の厳格な解釈と適用を優先させ、資本の蓄積と経済発展に貢献したことはよく知られる。たとえば、法制史家モートン・ホーウィッツは、1820年までには米国の法は、1780年代とは様変わりをしたと主張する。法はもはや習慣に表現され自然法から導き出された永続的原則を表すのではなく、社会を統治し社会的に望ましい行動を促すもの、すなわち社会工学の道具と考えられるようになった。この法概念の変化に伴って、米国法で最も重要な位置を占める財産の概念も、根本的な変化を遂げた。すなわち財産は、その所有者が他者に干渉されずに所有を楽しむものから、生産的使用と経済発展に供すべきものへと変わった。日照権問題や(enjoyment of sunlight)、川下に粉ひき用の水車場を建てて上流の土地を水浸しにしてしまう問題、などでは、先住権よりは将来の経済発展に寄与するような財産の使用をする側に有利な判決が下るようになった。[Morton J. Horwitz, The Transformation of American Law, 1780-1860 (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1977), 30-31, 44, 47-53, 253-266.]こうした法的思潮をJ・ウイラード・ハーストは メrelease of energyモ([経済発展のための]エネルギーの解放)という有名な文句で表現した。[J. Willard Hurst, Law and the Conditions of Freedom in the Nineteenth-Century United States (Madison: University of Wisconsin Press, 1956), Chapter 1.]

 

家族関係法と家庭の統治

 この二人の法制史家の研究は米国法と米国社会変遷の関係を見事に分析しているが、それでも不充分だと、『アメリカン・ヒストリカル・レビュー』の代表編集者マイケル・グロースバーグは主張する。彼は、二人が経済決定論的な議論を押し進め、法形成過程における社会的・文化的影響を除外したと述べる。19世紀を通じて次第に拡大し、多様化し、階級意識が増大しつつあった社会の諸問題を解決するのに、国家の介入に頼るような衝動を育てたのは、社会的・文化的影響であった。こうした衝動は、グロースバーグ以前は経済的要因でのみ説明されてきたが、family law と呼ばれる「家族関係法」の分析により社会的・文化的影響の把握が可能になる、と彼は主張した。[Michael Grossberg, メGuarding the Alter: Physiological Restrictions and the Rise of State Intervention in Matrimony,モ The American Journal of Legal History 24:3 (July 1982): 200.]

 しかも「家族関係法」の分析は、米国史理解に大きな実りを提供すると彼は述べる。「家族関係法」は、求婚、結婚、避妊、妊娠中絶、私生児、子供の保護監督権といった基本的に私的な人間関係を扱う。彼の代表的著書『囲炉裏の統治』は、19世紀の米国法とくに司法が、かつて極めてプライベートな存在とみなされていた家庭および家族関係をどんな目的で如何にして統治するようになったか、つまり家庭という私的な存在が国家建設・維持という極めて公的な領域に組み

込まれていった過程を分析している。19世紀の家族関係法の特徴をグロスバーグは次の3点に集約する。1)18世紀末と19世紀初頭は法律家、立法者、訴訟当事者、評論家などが米国の家庭の統治のあり方を根本的に変更した時期である。2)19世紀の家族関係法の展開は、家庭内および家族の成員と国家の間の力の均衡を実質的に再編成した。特に、法の変遷過程で父権が低下し、母親と子供の特権が拡大し、そして家族関係における国家の責任を明確に確立した。3)こうした法の再編成を監督したのが国家の司法で、裁判官、特に控訴審の裁判官は米国の家庭の監督者となった。[Grossberg, Governing the Hearth: Law and the Family in Nineteenth-Century America (Chapel Hill, N.C.: The University of North Carolina Press, 1985), xi-xii.]

 

私的領域への国家の介入

 ハースト、ホーウィッツ、グロスバーグらの指摘を待つまでもなく、19世紀、特にその後半に米国社会には様々な変化が訪れる。彼らの貢献はその変化の理解に米国法の分析がいかに有効かを実証したことである。なかでもグロズバーグの研究は、妊娠中絶論争の史的文脈を提供している点で重要である。

 米国における最初の妊娠中絶を禁止する法がコネチカット州で成立したのが1821年で、米国医学学会が妊娠中絶非合法化運動を開始し、40以上の州で妊娠中絶禁止法が成立するひとつの契機となったのが、1859年である。少なくとも19世紀はじめまでは、妊娠中絶は社会的に容認されており、19世紀後半に入ってからも、広く実施されていた。19世紀末にはしかし、妊娠中絶は犯罪であり、また極めて不道徳な行為という社会的見解が確立していた。この変化には米国の司法が大きな役割を果たした。

 米国の司法は、結婚という極めて私的な領域に介入し、結婚資格を定めるような判例を残したり、さらに子孫を残すのに相応しい人間を規定するまでに至る。20世紀になって諸州で成立した断種法はその端的な例であろう。社会改良を目指した人々は、精神的、身体的、道徳的に欠陥があると考えた人々が子孫を残すことを禁じる方策を講じた。1907年にインディアナ州で断種法が成立したのを皮切りに1931年までに27の州が何らかの強制断種を法制化した。[Ibid., 151.]

 1927年、米国最高裁は18歳の女性バージニア・バックの断種を承認した。米国法理学の古典 The Common Law の著者、オリバー・ウェンデル・ホームズ判事は判決の中で、バックが州施設に収容されている「精神薄弱の白人女性」であり、「同じ施設にいる精神薄弱の母親の娘」で、また自身が「私生児の精神薄弱児の母親」であると述べた。また、「退化した子孫をその犯した罪により処刑したり、あるいは愚鈍のために飢えるがままにしておいたりする代わりに、そういう明らかに社会に適合しない人間が同種の人間を産み出すのを、社会が阻止する事ができるとしたら、その方が世の中にとって良いのだ」と述べ、最後に「愚鈍は3世代で充分である」という有名な言葉で締めくくった。[William E. Leuchtenburg, The Supreme Court Reborn: The Constitutional Revolution in the Age of Roosevelt (New York: Oxford University Press, 1995), 13-14.]

 この判決には、米国の司法が目指した社会のあるべき姿が示されていると同時に、19世紀に女性がおかれていた状況が現れており、それらが米国の出産調節および妊娠中絶に対する政策の史的文脈がうかがえる。もちろん、これは妊娠中絶に反対する人々が倫理観や宗教的信念に基づいて、1980年代に大規模な反中絶運動を行うようになるはるか以前の話である。しかし、その激しい反中絶運動を取り上げる前に、我々はそもそもどの様な経緯で19世紀に妊娠中絶が非合法化されたか、すなわち妊娠中絶が社会的に容認または放置されていた状態から、どうやって犯罪となったかを考察しなければならない。

 

(山倉 明弘)