Scenery

       文学の中のアメリカ生活誌(20)       

Climate(気候)1560年代半から1812年までのヨーロッパは、気象学史的には小氷河期と呼ばれるほどに寒冷な時期であった。1492年にChristopher Columbusがアメリカ大陸を発見した後、Cabot父子やAmerigo Vespucciなどのイタリア人冒険家たちが試みたアメリカ大陸探検は、この寒冷な気候と少なからず関係があった。つまり彼等は暖かい土地を探し求めていたのである。そうしたひとり、フランス国王Francis一世の旗を掲げて航行していたフローレンス出身の船乗りGiovanni de Verrazonoは、1524年の夏ヨーロッパ人として初めて現在のメーン州とノース・カロライナ州のほぼ中間点まで大西洋岸に沿って航海した。彼はその時目に映ったアウターバンクという沖合いの島の印象をFrancis王あての手紙にこう書いている。「この島は34度のところにあり、空気は健康によく、(気候は)温暖です。この地域ではひどい風は吹きません。海は静かで、荒れていなく、波はおだやかです。香りのよい色々な花でいっぱいの美しい庭園の中にいるかのように甘い、強いにおいがします」。後に大西洋の墓場と呼ばれるほどに荒れ模様のアウターバンク周辺の海を「静かで、荒れていなく、波はおだやかです」と記した彼の描写の真実性を疑う人はいまい。が、別の文のなかで「メーン州付近は寒く、樹木は寒い国に自生しているような木であった」とはっきり書いている彼を見ると、前記の描写には、資金面で航海を支援してくれたFrancis王を喜ばしたいという気持ちが強く作用していたとの思いがまじるのを免れない。

北アメリカの厳しい冬の情景をありのままに記録した最初のヨーロッパ人は、Verrazonoのあとに北アメリカ海岸を探検したフランス人Jacques Cartierである。彼は寒さと壊血病で仲間の多くが亡くなった2回目(1535年〜36年)の探検の様子をこう記している。「11月中頃から3月半ばにかけて我々は深さ2ひろの厚い氷と高さ4フィート以上の雪に閉じ込められた。. . .25名のすぐれた、主だった人々は亡くなり、他の人々は回復することはないだろうと思われるほどの病気になった」。また1604年から1605年にかけて、ニューブランズウイック州サンクロワ島で冬を過ごしたフランス人探検家Samuel de Champlainは「ここで冬を過ごしたことがない者にはこの国を知ることできない。. . . 寒さはフランスより厳しく、激しく、ずっと長く続くのだ」と述べている。だが、この種の情報は、当時のヨーロッパで支配的であった気象説のためヨーロッパの人々の間に広く知れ渡らなかった。地域の気候を決定するのは太陽の傾きとするその説は、「ニューイングランドはロンドンのかなり南、つまり南緯10〜12度に位置するので」、前記のVerrazonoの報告書に表象されているように「ローマと同じ暖かさで、毎年作物の豊作が見込める」といいくるめていた。ついでにしるすと、英語のclimate(気候)は傾きを意味するギリシャ語klimaからきている。そういうわけでニューイングランドへ渡ってきた初期の移民たちは、アメリカの苛酷な気候については何ひとつ準備をしていなかった。1620年12月にプリマス植民地を建設した総勢102名の巡礼者たちの半数以上が、その冬の烈風、雪、厳しい寒さで、亡くなったのは不審でない。 

Movie(映画)1880年10月、Thomas Edisonは動くものを透明な帯フィルムで再生する装置、Kinetoscope(キネトスコープ)の特許を出願した。客が箱の小さな穴を通して光に照らされたフィルムを覗き見るこの装置は1894年4月14日にニューヨークのブロードウェ一15番地のキネトスコープ・パーラーで初めて一般公開された。ヴォードヴィル・ダンス、ボクシングの試合を実写したわずか1分程度のフィルムだったにもかかわらず、大勢の人がpeeping show machine(覗き見ショー機)を一目見んものと、会場につめかけた。しかし、キネトスコープの弱点は一度に一人しか見られないことだった。Edison自身もこの欠点に気づいていたらしく、彼の弁護士から国際特許を取るため150ドル出すよう云われても、そんな価値はないと断わった。かくして大勢で見れる上映方式の開発競争が始まった。フランスではLumiere兄弟が、Edisonのキネトスコープを基に考案した cinematographe(シネマトグラフ)を使って1895年、パリのキャプシーヌ大通りにあるグランカッフェ地下のインド風サロンで、世界最初の画像をスクリーンに映しだした。ついでにしるすと、この言葉はイギリスやアメリカではアクセント・マークと語尾のeが落ちてcinematographとなった。そして1899年になると、映画の意味で cinematgraphの短縮語のcinemaが生まれた。もっともこの言葉は、アメリカではkinemaと綴られることが多かった。イギリスではRobert Paulが Theatrograph(シアトログラフ)を作った。この撮影と映写の機能を備えた装置は、1896年までにはAnimatograph(アニマトグラフ)とも言われるようになり、イギリスの映画産業の礎を築いた。Edisonも各国の映写会が大反響をまき起こしていることに気づくと、慌ててアメリカの Thomas Armattが発明したVitascope(ヴァイタスコープ)を改良して、1896年4月23日にニューヨークのケスター・アンド・ビアルズ・ミュージック・ホールでヴォードヴィル・ショーの余興として大勢の観客の前で上映した。mechanically reproduced theater entertainment(機械式再現演劇)と呼ばれたこの映画は、くるくる回るダンサー、ボクシングの試合、浜に押し寄せる波などのshot(一場面、1889年の言葉)を寄せ集めた短いものであったが、New York Times は「この映画は驚くほどリアルで、楽しい」と激賞した。初期の映画は、しばらくの間話の筋のないものばかりを撮っていたが、上映場所のミュージック・ホールや5セント劇場の前には一部の目の肥えた者が殺到した。

 1903年Edwin S. Porterがアメリカ初のストーリを持ったThe Great Train Robbery(『大列車強盗』)を制作した。上映間はわずか11分ほどだったが、1分間に14の場面が展開するこの西部劇は、クローズアップやローアングルといった高度な撮影技術とドラマの要素を取り入れたので、都市では大評判をとった。ペンシルベニアのマッキースポートにアメリカ初の映画専用劇場が建てられるのは1905年だが、この建物はnickel theater (ニッケル・シアター、1912年の言葉)と呼ばれた。これは入場料が5セント(ニッケル硬貨一枚)だったことからきている。物語映画の増加によって、1907年にはアメリカ全土に5,000軒のニッケル・シアターができ、1910までにはその数は8,000軒に増えた。20世紀初頭の5セント時代の映画館は空調設備が不十分で、館内がすし詰め状態になるとdump(ごみ捨て場)のような悪臭を放ったのでnickel dump(ニッケル・ダンプ)とも呼ばれた。作家John SloanのMovie, Five Cents (1907)にはそうした汚い館内の様子が描かれている。映画は、1906年にはmovieと言われるようになり、映画館も1913年にはこの呼び名がつけられた。               

(新井正一郎)