Controversy

文化戦争」に見るアメリカ史(3) ─ 対立の拡大と激化

 

二項対立論への批判

 ハンターの『カルチャー・ウォーズ』は、そのタイトルが、アメリカの文化的価値観を巡る現代の論争を表す一般的な用語になっているという史家もいる。[James Gilbert, メCultural Skirmishes,モ Reviews in American History 21:2 (June 1993): 346.]彼の説は様々なところで支持されて引用され、また逆に批判・反論を受けている。また、彼の文化戦争説を用いて、現代の様々な激しい論争を詳細に分析する論文集も出版されている。[James L. Nolan, Jr., ed., The American Cultural Wars: Current Contests and Future Prospects (Charlettesville: University of Virginia Press, 1996).]

 ハンター説に対する最も有力な批判の一つは、ハンターの分析があまりに単純な「正統派」対「革新派」という二項対立(ダイコトミー)になっているというものであろう。たしかに、二項対立は、伝統的に西洋社会には馴染みのもので、理解もしやすい。しかし、社会学者ライズ・ウイリアムズは、アメリカ人の政治的意見、態度、価値観が二つの極近くに偏って集まっているというのは正しくないと主張する。様々な調査の結果は、大多数の人々は両極の中間的な意見を持っていることを示している。また、人工中絶の問題を除けば、アメリカ人の政治的意見は決して両極分化していないとも彼は主張する。

 たとえば様々な調査の結果では、アメリカ人の政治的態度には二つの次元が見られる。それらの次元とは、政財と政治権力に関わる次元(ウイリアムズはこれを「公正」に関する問題と呼ぶ)と個人的行動および文化的象徴的表現(「道徳」に関する問題)の2つである。この二つの次元によって人々の態度は四つに分類できるのである。「公正」に関しては「正統派」であっても「道徳」に関しては「革新派」であることもありうる。その上、前述の通り、もし大多数の人々がいずれの極にも偏らない中間層的な人々あるとすれば、論争の陣営といっても実はハンターが言うほど単純ではないのだと彼は言うのである。[以上、ウイリアムズの主張は Rhys H. Williams, メIs America in a Cultural War? Yes-No-Sort Of,モ Christian Century, November 12, 1997, p. 1041.]

 この二つの反論のうち「大多数の中間層の存在」に対しては、ハンター自身が反駁している。彼の言う「文化戦争」は、公共の問題に対するふつうの人々の態度という観点から説明しうるものではない。このような道徳的な観点というのは、社会制度の中に組み込まれ社会制度を通じて明確に表明されることで、それ独自の生命を持つことになる。そしてまさにこの次元で、文化戦争という言葉は、その厳しさや極化傾向や論争のための諸手段の動員という特徴を伴って、最大の概念的力を持つのであると、ハンターは主張する。たとえば、マスコミや選挙運動の母体などの社会制度を通じて人工中絶に関して中間的な意見が表明されても、それは中絶反対か容認かのいずれかの意見に還元されて社会に伝わりがちである。このようにして大勢の中間層が論争のシーンから見えにくくなる。[James David Hunter, メReflections on the Culture Wars Hypothesis,モ in Nolan, 245, 255.]

 

歴史的視点の欠如という批判

 筆者にとってもっとも重大なハンター説批判は、彼の説が「歴史的視点を欠いている」というものである。アメリカの宗教文化の歴史は、複雑なパターンを示しており、改革と保守主義の力が同時に示されるという特徴があり、アメリカ文化における変化を引き起こすのは、こうしたサイクルをたどる過程である。そしてギルバートは、この変化の過程をある時点で凍結させて描くことに反対する。[Gilbert, 350.]

 たしかに、ハンターの文化戦争説には、そのような進行中の現象を凍結させて描く側面があることは否定できない。しかし、彼が文化戦争の本質と見ている「正統派」対「革新派」のせめぎ合いというテーマそのものが、歴史的視点を取り込まないことには考察不可能であるし、またハンター自身も積極的に歴史的分析を行っている。特に、第3章の「文化戦争の歴史的根源」は歴史家にとっても非常に興味深い内容だと思う。

 ハンターは、アメリカにおいて社会の緊張要因を扱った論評が、ほとんどは歴史的文脈を欠いていると主張する。現代の文化戦争は、百年を超える宗教的緊張から、それもアメリカの宗教的多元主義の拡大と再編成を通じて生成したものだと述べて、その歴史的変遷を概観する。プロテスタント諸派の間に見られた多様性がやがて共通のプロテスタント主義に収斂され、さらにプロテスタントとカトリックの間にキリスト教文化としての合意が形成された。やがて、この合意にユダヤ教・キリスト教伝統を核にしてユダヤ教文化も加わった。ハンターは、ウィル・ハーバーグの名著の一説を引用し、20世紀半ばまでには聖書に基づいた有神論を核にして、これら3者の間におおざっぱな合同が成立したと述べる。[Hanter, p. 70; Will Herberg, Protestant, Catholic, Jew (New York: Harper and Row, 1955)]そして第2次世界大戦後になるとこの合同を横断する形で「正統派」対「革新派」の対立という構図が目立つようになるというのが、彼の文化戦争説の核心である。(詳細はハンターの著書の第3章参照)

 

権利意識と「文化戦争」

 「正統派」対「革新派」の対立は、アメリカ人が伝統的に強く持っている「権利」の意識によってさらに拡大・激化する傾向にあるが、この点についてのハンターの分析は不充分である。

 米国憲法研究の代表的法制史家ジャック・レイコウブによると、宗教的良心の自由、公務員を批判する資格、恣意的に逮捕されたり身体的拷問を加えられたりしない保証などは、ほとんどのアメリカ人が常に享受すべきだと考えている権利だという。これらの権利は最初に1215年のマグナ・カルタに始まり、1689年の権利の宣言で確立された。イギリス人は自由の民で、ヨーロッパ人の羨望の的であり、1689年宣言は、マグナ・カルタと同じく、イギリス人の諸権利を恣意的な政府の手の届かないものにしたとイギリス人は考えていた。一方、大西洋の対岸でも新大陸の植民地人は、「母国」の人間が享受しているのと同じ市民的自由を享受することを期待していた。[Jack N. Rakove, Declaring Rights: A Brief History with Documents (Boston: Bedford, 1998), 7, 13-14.]

 レイコウブの議論で面白い点は、アメリカにおける権利の主張の性格である。いわく、アメリカの政治や法文化には様々な権利の主張が渦巻いている。現代アメリカの法制度は、さながらバベルの塔から発せられる息もつかせぬ多様な権利の主張の中で運営されていて、主張される諸権利はお互いに直接抵触し合うことがよくある。望まない妊娠を中絶する母親の権利は胎児の生きる権利と抵触する。起訴され有罪となった犯罪者の権利は、犠牲者及びその家族の権利と抵触する。宗教的少数者および無神論者の権利は、公立学校でのお祈りなどの手段を通じて主張される宗教的多数者の公の場での彼らの宗教的価値観の確認という権利と抵触する。アファーマティブ・アクション(積極的差別解消政策)を通じて過去の差別を是正するために優遇策を受ける人種的マイノリティーの権利は、何人たりとも、人種や性別や差別の歴史に関わりなく、その才能や能力だけで判断される平等の権利を持つという主張とぶつかる。[Ibid., 17-18.]

 このように、長いアングロ・アメリカ的伝統に培われた権利の主張は、近年になって一層拍車がかかり、メアリー・グレンドンが「ライツ・トーク(権利を声高に主張すること)」と呼ぶ現象を引き起こし、それが「政治的論議の貧困化」をもたらしている。つまり、拡大し続ける権利同士が衝突し、冷静な議論や解決をますます難しくしている。[Mary Ann Glendon, Rights Talk: The Impoverishment of Political Discourse (New York: The Free Press, 1991), メPreface.モ]レイコウブは、この権利の主張について次のようにその性格を喝破している。「権利というものは宣言されなければならなかった。それは、権利なしでは米国憲法が欠陥を持つと言うではない。そうでなくて、むしろ、アメリカ人が自然状態を離れて市民的政府をうち立てたときに、一国の国民とは権利を宣言するのが当然だと彼ら自身が考えたからなのだ」と。[Rakove, 37.]

 このようにして、権利を着々と拡大し、それらを声高に主張するのはアメリカ人の大きな特徴の一つとなった。そして当然のことながら、それは「正当派」対「革新派」の争い、つまり文化戦争を激化させた。両者はともに、自分たちこそが主張すべき権利を持っていて、それは長い伝統に培われたものであり、正当性と正統性は我にありとに考える。主張は真っ向から対立するが、発想はよく似ている。

 権利意識の生まれてきた由来から明らかなとおり、アメリカの権利意識は米国憲法と密接に結びついている。したがって権利意識の絡む論争が同時に法廷の場で争われることも珍しいことではない。この様な憲法の絡む論争の多くは、「個人の権利」対「公共の利益のためにそれを規制する政府の権利」、および利害と価値観の全く異なる個人同士の権利の衝突のいずれかにおおよそ大別できるようである。いずれにしても価値観の相違に権利意識が密接に絡んでいる。それは、近年法廷に盛んに闘わされている論争を列挙すると容易に理解できるだろう。たとえば、それらは、

 

・人工中絶を求める個人の権利--それを規制する州の権利

・「アファーマティブ・アクション」を権利として求める人種的マイノリティーの主張--それを「逆差別」として排除する権利を訴える人々の主張

・憲法で保証された信教の自由という公立学校でお祈りをする権利--公立学校でのお祈りは、国教の制定や国家と宗教の分離を禁止した修正第1条に反するという主張

・修正第1条で保証された表現の自由--猥褻物から守られる権利

 

である。

[以上の権利意識の絡む論争については次の文献を参考にした。Henry J. Abraham and Barbara A. Perry, Freedom and the Court: Civil Rights and Libraries in the United States, 7th ed. (New York: Oxford University Press, 1998), 5-6.]

 近年の論争を以上のような枠組みで理解して、これから具体的な論争を読み解いていき、アメリカ史考察の一助としたい。

(山倉 明弘)