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Golpista(クーデター首謀者)から大統領へ

「パン、パン、パーン」

 ベネズエラでの留学生活も半年を過ぎようとしていた1992年2月4日未明、小刻みに続く、まるで花火の破裂音のような音に目を覚まされた。外はまだ薄暗く不気味なほど静かだった。何気なくいつも通り朝のニュースを見ようとテレビのスイッチをつける。するとペレス大統領が国民に対し、何か必死の形相で演説している画面が映し出された。そこへ友人からの電話が鳴り響く。「どうやらクーデターが起こったらしい。いいか外へは絶対出るな」と、短い、しかし緊張した彼の言葉で、やっとそれまでの奇妙な現象を理解することができた。しかし、ふと気がつくと下宿の大家は海外旅行中、留守を自分一人に任されている。ラジオを頼りに自分で情報を把握しなければ、食料は十分あったか、など様々な不安を抱え不穏な数日が始まることとなった。

 「クーデター」この言葉は政冶家の汚職、巨額の累積債務、麻薬、ゲリラなどと共に中南米が我々にもたらすイメージの一つとして、既に広く定着してしまったように思われる。確かに60年代半ばから70年代にかけて、多くの中南米諸国で当時の社会不安や経済的混乱に乗じ軍事政権が誕生した。 しかしベネズエラは、1959年以来、二大政党がほぼ交互に政権を担当して民政が守られてきた数少ない例外国であっただけに、92年の2度にわたるクーデター未遂事件は国内はもとより海外へも強烈なインパクトを与えてしまった。

 南米大陸北端、カリブ海に面するこの国は、中南米諸国の中では特異な発展過程を歩んできた。植民地時代、スペイン本国が期待した金銀が発見されなかったため、主にココア、砂糖、コーヒーなどを生産する一農業国であった。が、1910年代に始まった石油開発がこうした植民地的経済構造を一変させてしまった。特に1976年、それまで外国企業の手に委ねられていた石油産業が国営化されると、その石油収入を元に国家自らが積極的に経済開発計画を推進させ、その結果、南米ではブラジル、アルゼンチンに次いでGNP第三位にまで急成長することができたのである。

 しかしながらこうした性急な工業化政策は、80年代の石油価格低迷、累積債務危機、更に国営企業の非合理性などの諸要素によりあえなく頓挫。こうして中南米共通のうねりとなっている民営化と市場開放を柱とする新自由主義経済政策へと大幅な軌道修正を余儀なくされたのである。

 それに伴ない緊縮政策を取らざるを得なくなった政府には、工業化の過程で出現した様々な社会的不均衡(農村の哀退、人口の都市集中、巨大化したスラム、不法移民など)に対応する能力は既になくなっていた。更に公共料金の値上げや公営機関(大学、病院など)への歳出カット、といった苦肉の策が失業率やインフレの上昇を招き国民の生活を圧迫。国民の政府に対する不満を一気に増長させた。こうして92年、軍の一部を動かしうるだけの、必要条件といったものが全て揃ったわけなのである。

 92年のクーデターは直接的には当時自由化政策を推進させ、かつ汚職がまん延していたペレス政権の打倒を目指したものであった。国民は軍部が介入したことに反発はしたものの、彼らの主張に多くの民衆は共感を覚えた。特にクーデター首謀者、ウーゴ・チャベス陸軍中佐は、反乱失敗直後テレビのインタビューに応え「すべての責任は私にある」と語り、国民的英雄となった。それから6年後の97年、彼は次期大統領選挙に立候補を表明。クーデター当時身に付けていた赤いベレー帽と軍服からスーツ姿に変身はしたが、彼は一貫して貧困の撲滅や汚職の追放、そして新自由主義に対する反対を主張し、特に貧困層の支持を拡大させていった。そして、これまで政権を担当してきた二大政党の選挙戦での不手際も手伝い、98年12月に行われた選挙においては、対立候補に予想以上の大差をつけ当選を果たした(彼の得票率56.2%は歴代2位)。

 今回の彼の勝利の要因を、社会経済全般の悪化と、既存の政治体制の腐敗、といった政治経済の両側面から分析することができる。この国の経済破綻までのプロセスについては先に述べたとおりだが、1989年からの経済自由化政策により、96年までの累積インフレは800%にのぼり、失業率は10%を超えた(労働人口の約半数はインフォーマル・セクターに従事)。国民の約44%は貧困状態にあり、その半数近くは極貧層に属している。こうした経済状況の悪化は、石油ブームに沸き豊かな時代を享受した国民に失望感を抱かせた。更に93年ペレス大統領の汚職発覚により政府に対する不信感、いや怒りにも似た感情を増幅させていった。しかしこうした諸要素の他に、この国が有するもう一つの顔、近代移民受入国という側面にも目を向ける必要がある。

 独立直後の1810年に80万人であったベネズエラの人口は、1941年380万人と130年間で4.8倍になったにすぎないが、その後1996年には2200万人と膨れ上がり55年間で5.8倍、実数で1820万人増となった。この驚異的な人口増加は、第二次大戦後に流入したヨーロッパ移民と、70年代の急速な経済成長に魅せられ移住した外国人労働者による。が、問題はこうしたデータに表れない、無許可で陸路国境を越えてくる不法入国労働者が数多く存在することである。彼らの家族を含めると不法滞在者の累計を約400万人とする推定もある。

 目覚ましい経済成長を遂げた70年代、彼らは重要な労働力源として事実上社会に組込まれていった。だが80年代以降厳しい経済危機に直面しているベネズエラにとって、彼らの存在は大きな不安要因である。

経済の悪化が彼らの生活を圧迫することにより、インフォーマル・セクターや貧困層の拡大を増長させる。そして更には犯罪の増加を惹起し、社会的抗議運動の過激化を促すからである。また社会や国家への帰属意識の希薄化が、国民の理解と連帯を必要とする一連の緊縮財政・構造調整の実施を妨げることにもなる。

 こうした問題についてある社会学者はこう述べている。「中南米諸国が現在抱える最大の問題は、単に所得面から見た貧富の差の増大ではなく、国民的アイデンティティーを創出するとされる共通した生活様式や価値観が、国民の貧富の二極化により喪失しつつある、ということである。そしてこの現象は歴史の比較的浅い国、つまり近代の移民によって成り立った国において顕著のようだ。」

 このベネズエラにおいても全人口の8%といわれる富裕層と、40%以上の貧困層との格差が縮小し、更に工業化の過程で流入した大勢の商業移民や外国人労働者達がしっかりこの国に根づき国民相互の連帯が生まれない限り、現在の危機的状況を乗り切るのは難しいと思われる。

 1990年彗星のごとく現れ、テロの鎮圧、経済再建、腐敗した政治の浄化といった改革*-を強硬に推し進めたフジモリ大統領を、当時羨望のまなざしで見つめていたベネズエラ国民。いよいよ今回彼らはベネズエラ再建の夢をチャベス大統領に託すことになった。様々な不満分子を一手に掌握し、中下層階級の圧倒的支持に支えられ当選、就任後2ヶ月が経過した4月の時点でも84%という驚異的な支持率を保っているチャベス大統領。はたしてベネズエラの救世主に成り得るか、今後の動向を見守っていきたい。

(天理大学非常勤講師 野口 茂)