Scenery 文学の中のアメリカ生活誌 (19)

Barbershops(床屋)アメリカでは床屋を意味するbarber、haircutterという言葉は、ピルグリムのプリマス海岸到着以後70年ほど経た1690年代になって初めて使われた。当時の床屋はBarber and Chirurgeon(床屋外科医)という看板をかかげていた。その理由は、植民地時代のアメリカの床屋はひげそりとかつらの手入れのほかに放血、つまり静脈切開、浣腸などを行っていたからだ。店によっては血を吸わせるヒルが入っているビンが置いてあった。店の前には赤と白のしま模様の barber pole(床屋の看板柱、1690年代の言葉)が出してあった。赤は血を白は放血手術後の包帯を表わし、「血をぬきとります」という意味であった。もっとも散髪のため床屋に行ったのは、フランス流に自毛をそり、かつらをつけた金持ち連中だけで、一般の人々は自分でひげをそり、髪は家で女性たちに刈ってもらった。ところで、フランス産のかつらがアメリカに伝わった事情は次のようなものだった。

 フランスの国王Louis14世は、40歳まで髪はふさふさしていたが、その後急激に薄くなったので、1670年代頃からかつらをつけはじめた。この習慣はヨーロッパ中に広まり、17世紀のイギリスでも有識者の間ではやった。periwig(かつら)の短縮語のwigという言葉が英語に入ったのは1675年であった。高価なかつらは人の髪でできていたが、安いものは馬の毛でつくられた。1700年から1715年にかけての男性の裁判官が権威の象徴としてつけていたかつらは、肩までたれた長い、重いものであった。この後ろの重いかつらは扱いにくく、はずれやすかったので、やがてriding wigs(乗馬かつら)、traveling wigs(旅行用かつら)といった小さなかつらが人気を博するようになった。この手軽なかつらは新大陸の一握りの金持ちにも好まれた。もっとも、なかにはニューイングランドに勢力を振るった牧師Cotton Matherのように人目を引く手のこんだかつらを好んでつけた人は依然いた。

 1770年代に入ると、かつらはもう上流階級や富豪階級の欠かせないものでなくなり、独立戦争後は完全に姿を消した。文人Benjamin FranklinはAutobiography (1791)で床屋を単にbarbersと記しているが、床屋と外科医との分離が本格化するのは、アメリカの産業主義社会への離陸が始まる1840年代になってからだ。その頃には清潔のための身繕い、つまり専業化した床屋で顔をきれいに剃ることときちんと散髪することは、都市住民、特にビジネスマンの信用のしるしになっていた。1832年からbarbershop(床屋店)という複合語が登場し、世の中に広まった。作家で最初にこの言葉を使ったのはMark Twainである。1850年代にはhairdressing saloon(理髪店)という語があらわれた。ついでにいうと、1820年代からほぼ60年間、アメリカの床屋の多くは黒人であった。1850年代以降になると、Napoleon3世がImperial(皇帝ひげ)と呼れた下あごのとがったひげを愛好した影響で、アメリカの都市住民の間にもさまざまなbeards(あごひげ、この言葉の初出は1825年)をはやす傾向が広がるようになった。1860年から1879年までのすべてのアメリカの大統領は、ひげをはやしていた。文学界でもW. C. Bryant, H. W. Longfellow, H. D. Thoreau,W.Whitmanなどそうした人はじつに多い。だが、この流行は長続きせず、1870年代には下火になった。1880年以後はほとんどのアメリカ人は再びひげをきれいにそった。もっとも年配の知識人達、例えば作家 William Dean Howells らは handlebar mustache(天神ひげ)として知られた長い、両端が下に曲がった口ひげをのばしていた。

Hospitals and Nurses(病院と看護婦)アメリカに専門職としての看護婦が現われるのはそう古いことでない。植民地時代には、看護はもっぱら尼僧の手にあった。1727年、カトリック教女子修道会であるウルスラ会は、ニュージャージーに最初の病院を建てた。1809年には the Sisters of Charity(慈善婦人会)という別のカトリックのシスターたちによってメリーランドに聖ジョセフ病院が設立された。19世紀になると、聖公会、ルーテル派、メソジスト教派といったプロテスタントの女性信者が看護活動に従事するようになった。これらのキリスト教病院は本質的には医療施設ではなく、貧しい人、病人、老人を親切に遇したり、避難所を提供する慈善院であった。アメリカ最初の病院は、Benjamin Franklinの推進により、1752年にフィラデルフィアに設立されたペンシルベニア病院だ。1765年にはアメリカ初の医学校がつくられた。これもフィラデルフィアであった。フィラデルフィアのほかにこの時代の医学の中心と呼びうるものは2つあった。ボストンとニューヨークである。これらの地には Benjamin Rushや Benjamin Water-houseなど、この頃の医学生のメッカであったエジンバラ大学を卒業した著名な医師がいた。しかし、卓越した業績をあげた医師らをかかえたアメリカの病院も、医師志願者に必要な医学校も南北戦争で消滅した。

 代わって古い徒弟制の私立医学校とそのお粗末な短期コースを修了した医師たちが勤務する非衛生的な私立病院が、各地に雨後のたけのこのように現われた。例えば、1872年にニューヨークのベルビュー病院を訪れた女性たちは、「いやな匂いで気分が悪くなった。ベッドと患者の状態はいいえないほどひどかった。看護婦はバスルームで眠りこけ、浴槽は不潔なごみでいっぱいだ」と述べている。彼女らの報告をきっかけに、1873年に専門的訓練を受けた真面目な看護婦を養成するためベルビュー看護学校が設立されるが、それまでのアメリカの私立病院の看護婦は、酔っ払い女や売春婦など無教養な評判の悪い連中だった。

 それに患者の治療にあたる医師たちは、老医から大抵の病気には思い切った処置を取るようにと教わっていたので、治療とは名ばかりで、ほとんどは患者に大量の下剤やcalomel(甘こう、塩化第一水銀)を投与するだけであった。このような殺人的治療法に反対を訴えていた一人に作家であり、ハーバードの医学部長でもあったOliver Wendell Holmesがいた。甘こうの使用を即刻やめ、人間のなかの自然治癒力を活用すべしとする立場をとる彼は、アメリカで「現在使用されている薬品をすべて海に投げ捨てるなら、人類にとって良いことだろう」と断言している。

 若い頃 Brooklyn Daily Eagle の編集者であった Walt Whitman の仕事の一つは、多くの出版社から送られてくる書物の批評であった。この中に保守的な医師らが書いた医学書に関して言及しているものがある。彼は彼等のいんちきな治療を「おそろしい」と言ってのけている。19世紀後半の病院は、このような欠陥だらけのところだったので、20世紀初期の金持ちや上流階級の人々は重体になっても入院を避け、自分の家のベッドで亡くなることを望んだ。                     (新井正一郎)