Scenery

文学の中のアメリカ生活誌(17)

Beach(海辺) 植民地アメリカではbeachという言葉はハドソン川の東岸とニュージャージー州沖合いの砂地の島の意味だった。当時の上流階層や富裕層の間では美しい水場へ旅行することが流行っていた。その理由はそこに満ちている空気が、難聴だけでなく、潰瘍やぜんそくや結核の治療に効果があったからだ。この頃の海岸は今日の娯楽(水浴び)の場というよりは、広範な病気の治療の場だったのだ。換言すれば、海での水浴は成人向けであって、海辺と子供とのつながりはほとんどなかった。

 海辺が海水遊泳場になるには18世紀後半まで待たなければならかった。1790年から1850年までの間に swimming, swimmer, swim という言葉が広まった。イギリス産のbathing machine(水浴機械)がロングアイランドの海岸にも見られるようになるのは1794年の頃だ。これは馬が引っぱる移動脱衣所のことで、人々はロバがひたひたと寄せるさざ波のところまで車輪のついたこの乗り物を運ぶ間に衣服を脱ぐのだ。1810年にはニュージャージー州東部のジャージー・シティの海岸がリゾートビーチと呼ばれるようになった。1854年7月4日、アトランティック・シティがフィラデルフィア方面と直結する鉄道や有料道路を整備し新たなリゾート地として動きだすと、同市は海水浴に熱心な人々の間で共通語になったのである。1870年になると、アトランテイック・シティは4マイルの長さの海岸遊歩道を建設した。この道路はその後拡張され、ハリケーンで同市が壊滅的な被害を受ける1944年には8マイルに及んでいた。1921年には集客作戦の一環として、同市はミス・アメリカ・コンテストを催した(この時の優勝者は M. Carman 嬢)。この企画は当たり、どのホテルも満員の日が数週間ふえた。

 海浜リゾート地で、アトランティック・シティの競争相手となるのが U. Grant 将軍が好んで訪れたロング・ブランチだ。シーズン中(7月1日から2カ月間)には各地から多くの人々が数日間、または1週間近く休息するために集まってきた。次いでブルックリンの南に位置するCoony Island(コニーアイランド、昔この島にいたアナウサギの古い名前コニーからきている言葉で、今のConey Islandというつづりが一般化するのは後のことだ)が大きなリゾート地になった。初め、このリゾートの階級構成は富裕層であったが、19世紀末から作家OユHenryの言葉を借りると、「狂ったような観光客の大きな波」が押しよせるようになった。多くの富豪は、もうこの頃のコニーをリゾート地としての興味の対象からはずしていたが、Vanderbilt や Velmont といった大富豪は庶民に混じって、ネイサン店の名物のConey Islands(コニーアイランズ、1880年代の言葉)という焼き蛤をむさぼり食べていた。1870年代の中頃には、この種の海浜リゾート地区は大西洋岸だけでも100箇所以上になっていた。

 世界から若者を集めていた当時のフランスでも男女はまだ別々に水浴していたが、アメリカの上記の海岸では女性が男性の手を握り、笑いながら一緒に砕けた波の中でころんだり、起き上がったりする光景が見られた。彼等はあまり泳いだりせず、安全ロープにつかまって海水の中で体を動かすだけだった。この時代の女性の bathing suit (水着を意味する1870年代の言葉、それ以前は bathing dress, bathing costume と言った)は首から足首まで身体全体を包んだ服の上に膝までの短いスカートをつけ、防水布の帽子をかぶるスタイルであった。1913年にJantzenがスカートのないワンピースの水着を発表すると、大騒ぎになった。肌の露出が大きいツーピースの水着が許可されるのはもう30年以上待たなければならなかった。

Clock(時計) 18世紀末になっても時計はアメリカでは一握りの金持ちしか持っていなかった。一般市民は、日光や星の位置や腹のすき具合といった簡便な方法で時間を計測した。正しい現在時間を気にする庶民は居酒屋やはたごに立ち寄った。これらの施設にはかならず大きな Parliament clock(議会時計または振り子式壁時計、この言葉の由来はイギリス議会が時計に高い税率をかけた18世紀後半にさかのぼる)が据えられてあったからだ。

 アメリカの都市に時計が現われるのは18世紀後半になってからだ。1770年代にボストンが市役所や人目を引く建物に town clock(町時計)を取り付けると、ずいぶん話題になった。それは時計が庶民のものでなかったしるしでもあった。1780年代になると、ドイツから新参者が持ってきたcuckoo clock (カッコウ時計)が新しい需要をつくりだし、1800年代には、Simon Willards が特許を取ったbanjo clock(バンジョー型の時計)が売れだした。しかし、各家庭に時計を広めたのはコネチカット州の時計屋だった。1807年にできたTerry や Thomas や Hoadleyといった時計工房は、綿繰り機の発明者として有名なEli Whitney が生みだした互換性(標準)部品の考え方を用いて、1822年までに安い、小さな木製時計を量産した。ヤンキー行商人は彼等の作った時計を馬車に積み、国内各地を歩き回った。巷では大いに話題になり、1836年には売り上げ数は80,000個に達した。

 時計の普及を促進した主因は、1820年代から30年代にかけての都市(産業)の成長であった。都市化の進展は自給自足の経済社会で何世紀にもわたって確立されてきた人々のゆっくりした生活のリズムを崩壊し、代わって決められたスケジュールで忙しく動きまわる通勤労働者を急増させた。かくして、ますます多くの都市住民は時間への関心を高めていった。1837年には都市のほとんどの家庭だけでなく、ある旅行者の言葉を借りれば「ケンタッキー、イリノイ、そしてアーカンソーの小さい谷や椅子一つない丸太小屋でも必ず正確な時を刻むコネチカットの時計を見かける」ようになり、果てはlike clockwork(時間通りに)という表現が生まれた。1840年代までにアメリカ人は常にon time (定刻に)と言うほど、時間が彼等の生活のあらゆる分野のなかに入ってきた。それは都市化が加速化しはじめたしるしであった。いまや人々は時間単位でなく、分単位で生活を測るようになった。当時の作家 Edgar Allan Poe はこうした時刻を強く意識する人物をしばしば描いて見せている。

 Terry の時計には文字盤の下に tablet と呼ばれる小さな絵が描かれていた。そこに時々工場の光景が描かれていることは、時計が仕事をきちんとするために使われる装置であったことをほのめかしていることは確かだ。だが、絵にしてみせているのは、工場の光景より人々が時間に追われることなく生活している農場とか田園生活の情景のほうがずっと多い。そこに、職人Terryの想いを読みとることができよう。彼には時計は時刻を計る装置というより、ゆったりと流れる悠久な時間を知らせてくれるロマンあふれる科学芸術であった。時計の振り子は生きて呼吸している宇宙の鼓動だったのだろう。                                 (新井正一郎)