Scenery

文学の中のアメリカ生活誌(16)

Luxury Liners (豪華客船) 1818年、イギリスのブラック・ルー・ラインは最初の大西洋横断定期航路を開き、40名の冒険好きな乗客を乗せた定期便シリアス号を運行した。次いで登場した1,320トンのグレート・ウヱスターン号はブリストルとニューヨーク間を15日で航行した。アメリカの最初の大西洋横断路客船は1850年にニューヨークからブレイマンまで処女航海したハーマン号とワシントン号であった。しかし、1856年に2隻のアメリカ籍客船が遭難すると、アメリカ政府は海運会社への補助金を停止した。その結果、アメリカの外車船の開発は30年間近く中断した。その間、イギリスの海運業は船用機関の改良と航路の開発によっていまだかつてない発展を遂げた。1871年に建造された重量3,700トンの大型鉄鋼船オーシアニック号は luxury liner(豪華客船、1872年の言葉)と呼ばれた。1880年代には8,000トン、時速24ノットの船が、さらに1894年には世界最初のタービンで推進する時速34.5ノットの客船タービニア号が完成した。イギリスの相次ぐ大型船の建造が劇的な触発となり、フランス、ドイツの造船会社も速度の早い大型船体をつくることに力を入れ始めた。数百トンの帆船の時代は完全に終わったのだ。第一次大戦後になると、国家も威信と名誉をかけ、豪華船造りを応援した。1906年に始まる50年ほどは、威厳ある称号を与えられた豪華客船が次々と誕生した時期であった。イギリスのタイタニック号(1911)、ルシタニア号(1906)、ドイツのブレーメン号(1928)、アメリカのユナイテッド・ステーツ号(1952)。各船会社はエジプトの大ピラミッドやニューヨークのデパートのメイシーズなどの有名な建造物と並置させた豪華船の広告写真を作って、巨大さを競いあった。もっとも19世紀末期ですら、大西洋を豪華客船で往復できるアメリカ人は一握りの金持ちや上流階級の人に限られていた。この頃活躍した作家Thomas Wolf は、そうした大型客船での外国旅行を「現代社会の最高の喜び」と述べた。庶民がこの喜びを共有するようになるのは、2 等客用の船室も快適になり、費用も安くなる1920 年代になってからだ。

 1910 年代の豪華客船の中で次の 2 隻は大きさ以外の理由で英米全土に大きな衝撃を与えた。1 隻はルシタニア号の沈没だ。1915年5月1日、船客、乗組員あわせて1,959 名を乗せた ルシタニア号は、ドイツ潜水艦の警告を無視してアイルランド沿岸に接近したため、2発の魚雷を受けて沈没した。1,198名の死亡者のうち、アメリカ人は124 名だった。作家Doss PassossのThe 42nd Parallel (1930 ) にはこの事件に対するアメリカ人の反応がこう書かれている。「ルシタニア号の撃沈で、誰もがアメリカの参戦は数カ月の問題であると感じた」。もう1 隻は去る3月23日に発表された第70回アカデミー賞で、最優秀作品賞など11部門を制した映画「タイタニック」に登場するタイタニック号だ。1912年4月10日、不沈をうたい文句にしたこの超豪華客船はニューヨークを目ざして船出した。が、4 日後の午後11時 40分、 ニューファンドランド島のグランドバンクスの南95 マイルの沖合いを時速22 ノットで航行中、氷山に衝突し、翌15 日に沈んだ。死者は1517 名であった。次は生存者の1人、タイタニック号の無線通信手がNew York Times に寄せた手記の一部だ。「私の周りには多くの人々がいた。海には救命具をつけた人々が点々と浮かんでいた。. . .煙と火花が煙突から勢いよく出していた。爆発したにちがいない。. . . 船はゆっくり傾いていった」。  

Santa Claus(サンタクロース) オランダ人の間では、中世以来12月6日のSaint Nicholas(聖ニコラス)の日に子供たちに贈り物をする習慣があった。聖ニコラスはトルコ南部のゲミレル島で4世紀に布教活動を行った人物で、3人の若い女性が売春婦に転落しかけていたのを耳にすると、彼はそれぞれに金貨の入った袋を与え、彼女達を救ったとの伝説がある。聖ニコラスの善行の話は広まり、ルネッサンスの頃になると、彼はあらゆる人々の守護聖人となり、彼の命日の12月6日は吉日、つまり大きな買い物をしたり、商取り引きをしたり、結婚式を挙げるのに縁起の良い日になった。オランダから入ったSaint Nicholasという語はオランダ人が早く言うとアメリカ人の耳にはSinterklaasと聞こえたので、Santa Claus(サンタクロース)という呼び名を頂戴することになった。アメリカでは聖ニコラス(サンタクロース)は、1773年12月23日のニューヨークの土地の新聞 Ribington's Gazeteer で初めて紹介された。「先週の月曜日、聖ニコラス、別名St. a Claus の記念祭が古の聖人の数多くの息子たちによって催された」。

 彼が文学作品に初めて顔を出すのは作家 Washington Irving のA History of New York (1809)である。この中の聖ニコラスは司祭服でなく、オランダ風の縁の広い帽子をかぶり、大きなパイプをふかしながら、馬車に積んだプレゼントを煙突から落とす人物に描かれている。もっとも、クリスマス・プレゼントを届けるサンタクロースの姿は神学者、Clement Ckark MooreがIrvingの聖ニコラス像をヒントにして、3人の娘のために書き上げた長詩An Account of a Visit from St.Nickolas (1822)によって形成されたものだ。この作品で特徴的なことは、サンタが従来の馬に乗ったいかめしい聖人ではなく、もっと親しみ深い人物に、つまりトナカイが引くそりに乗って空を飛びまわる明るい、陽気な小人の老人になっていることと、プレゼントを届ける日が12月24日のクリスマス・イヴに変わっていることだ。次はその一節。「クリスマス・イヴのことだった、/家中寝静まり、/誰も、ねずみ一匹も起きていなかった、. . . サンタは頭の先から爪先まで毛皮にくるまり、/. . .彼の瞳はきらきら輝き、/顔には陽気なえくぼ/ほっぺたは薔薇のようで、/鼻はまるでサクランボ/おどけた小さな口は笑っていて弓みたい、/あごの髭は雪のように真っ白で、/サンタはパイプの端をしっかりくわえ、/吐いた煙は輪となり/頭を囲む花輪のようだった/顔は丸顔、おなかは少し太鼓腹/笑うとゼリーの詰まったボールのようにふるえるのだ/サンタはまるまる太った小人のじいさんだった」。

 サンタがアメリカで初めて絵になったのは1837年になってからで、作者は陸軍士官学校の絵の教師Robert Weirだ。だが、彼が描いたサンタはブーツをはき、短い外套をつけた、ひげのない背の低い男で、現在のサンタとは似ても似つかぬものだ。今日の赤い外套をつけ、白髭をはやし、丸々太った、背の高いサンタクロースは1881年の Harper's Magazine に漫画家Thomas Nast が描いたクリマスの絵に由来する。Nastは電話がある北極の家で妻子や小人らと一緒に暮らしているサンタの様子を描いたので、子供らは彼を実在の人物とみなすようになった。19世紀末までにNastが子供たちの心に植え付けたおもちゃを多量に作り、それを黙々と靴下に入れるサンタクロースの勤勉な姿は、その後消費社会の到来とともに一変し、都市の多くの人々の消費欲をあおる商魂たくましい商人の仲間に仕立てあげられていった。作家Saul Bellow がThe Adventures of Augie March (1953) で描いてみせた百貨店のクリスマス商戦でおもちゃ売り場に投入されたそりに乗り、集まってくる子供らに愛敬を振りまくスウエーデン人が扮するサンタは、まさにその典型だ。                    (新井正一郎)