Lecture

アメリカ南北戦争と奴隷制の復活

──メキシコ・ユカタン半島におけるエネケン産業──

 すこしエッセー風に導入することをお許し願いたい。某民間テレビ局から電話がはいり、「エネケンについて伺いたい」とのこと。たしかに筆者の専門分野のひとつではある。「世界ウルルン滞在記という番組です。メキシコのユカタン半島に女優の斉藤由貴さんが滞在して、特産のエネケンについてクイズをだすのですが、エネケンで船のロープを作りスペイン人が大儲けしたということでいいでしょうか」との質問である。これに「ぜんぜん違いますねえ」と筆者はこたえた。絶句している担当者に同情して「もし、まじめに番組を作る気があるのなら協力しますが」とこたえた。内心「そんな牧歌的なものではないのだ」とつぶやいていた。ユカタンのエネケンの歴史にはわが国の「ああ野麦峠」さながらの悲劇が隠されている。

エネケンとはメソアメリカ原産の竜舌欄(サボテン)の一種で、そのぶ厚い葉の葉肉をこそげおとせば、丈夫な葉脈(繊維)がとれ、抗張力があり腐敗しにくいロープの原料となる。たしかにエネケンは船のロープに最適で19世紀前半には、ヨーロッパに輸出されていた。したがって番組担当者の知識はここまではあっている。しかし最盛期のエネケンの用途はじつは船用のロープではないのである。

スペインからの独立を達成したメキシコ・ユカタン州ではエネケンを有望な輸出産品として育成しようとした。しかし、エネケン産業を発展させるためには、いくつかの問題点があった。栽培をはじめて収益があがるまでの8年間をもちこたえるための資金の問題、年間を通じて必要な多数の労働力の問題、繊維を抽出する工程の機械化の問題、輸送用の鉄道の問題、そして市場の問題であった。これらの諸問題は、1853〜80年のあいだに、すべて解決され、きたるエネケン最盛期にむけて万全の体勢が整った。

そして、その最盛期は米国の南北戦争の終結とともにはじまった。戦争により、農業労働力の激減した米国では、農作業の機械化が急務となった。なかでも、収穫作業の機械化が米国農業発展の鍵となったのである。やがて、サイラス・マコーミックによって発明された刈り取り結束機(トワイン・バインダー)が急速に普及した。その結束用の麻ひもの原料としてエネケンが最適であることから、ユカタンのエネケン産業は作れば売れる大市場が開けたのである。その結果、1870年代には55万ペソだったエネケンの輸出額は、1880年代には250万ペソに、1900年代には3,600万ペソに増加し、メキシコの未加工農産品輸出品目のトップにおどりでた。エネケンで大儲けしたプランターは、メリダ市にエネケン御殿と呼ばれる豪奢な邸宅を建造し、贅沢のかぎりをつくした。

ユカタンのエネケン産業は、プランテーションの所有権は現地人(ユカテコ)がもち、繊維分離機も現地で開発され、鉄道も現地資本で敷設された。つまり、外国資本による「エンクレーブ経済」ではなく、自立的性格が強い。しかし、米国農機具産業という思いもよらぬ巨大な市場を与えられた地域経済発展の成功例といってよいかというと、そうでもなさそうである。

まず、エネケン・プランテーションの労働形態の問題である。ペオンと呼ばれた定住労働者には、ティエンダ・デ・ラヤと呼ばれる地主の直営売店の金券が給料として支払われていた。その売店では市価の数倍の価格がつけられており、またたくまに給料分はふっとび、多額の借金だけが残るシステムになっていた。債務奴隷化しプランテーションに縛られたペオンたちは、やがてその債務額とは無関係に人身売買されるようになり、事実上の商品奴隷となったのである。この再版奴隷制の犠牲者となったのは、ユカタン半島の先住のマヤ系インディオであった。高度な機械設備を備え大規模な海外市場向けに生産するエネケン農場は、資本主義的プランテーションの典型であるともいえる。資本主義が発展するほど、むしろ前近代的な労働形態が強化されたところにメキシコ資本主義の「従属的」性格が露呈しているといえよう。

ところで、米国の歴史において南北戦争はプランテーション奴隷制を維持しようとする南部と自由な労働力に基づく資本主義発展を志向する北部の抗争であった。したがって、南部の敗北は米国史における奴隷制の終焉を画するものであったことは周知の事実である。ところが、その南北戦争がとなりのメキシコにおいて奴隷制を復活させる契機となったのである。これをたんに歴史の皮肉として片づけることも可能であるが、エネケン産業のその後の展開からするとかならずしもそれだけでは済まされない。

世紀転換期の1898〜1902年は米国で企業合同の波が押し寄せた時期で、農機具部門においても主要5社に金融のモルガン商会を加えてインターナショナル・ハーベスター社が設立された(以下IHC.と略記する)。IHC.は、米国の収穫機市場におけるシェアーの90パーセント以上を占める巨大トラスト企業となった。そして、IHC.は、ユカタンの現地オリガルキーであるモリナ・ファミリーと手を結ぶことで、エネケン総輸出量の90パーセントを独占輸入し、事実上エネケンを支配した。IHC.とモリナ・ファミリーとの密約によってエネケン価格は低く抑えられた。そして一般のプランターは、IHC.の背景にしたモリナ・ファミリーに金融的に従属していき、エネケンを買いたたかれた。そのためのコスト削減のために労働力の搾取強化でカバーしようとしたところに、プランテーションで働くマヤ奴隷たちの悲劇があった。

こうして自立性が強く地域産業育成の成功例にもみえるユカタンのエネケン産業は、内実は現地のモリナ・ファミリーを通じて間接的にIHC.に支配されていたのである。このようにエネケン産業は、ユナイテッド・フルーツ社(現ユナイテッド・ブランズ社)の中米「バナナ帝国」のような直接支配のケースとは異なる「経済的従属」のひとつのパターンを示している。

そして1930年代にはいると、ブラジルやフィリピンなど他国の競合品の攻勢にあいユカタンのエネケンは硬質繊維原料としての地位を脅かされた。さらに化繊の普及による需要の低下とあいまって、エネケン産業は没落の一途をたどったのである。現在もユカタン州都メリダのモンテホ通りを歩くと、エネケン・ブームの栄華を象徴する豪勢な邸宅がたち並んでいるのを見ることができる。しかし、エネケン御殿の一部は荒れ放題のままであるし、一部は公共施設として接収されていたり、売りに出されていたりする。

「売り家」(Se vende)の看板をまえに立ち止まり、「おごれる人もひさしからず」とつぶやいて満足してもいられない。エネケン好景気でえられた資本を自立的経済発展のテコとして利用できなかったユカタン現地企業家の歴史的性格や資本主義発展における不自由労働形態(奴隷制)の強化の問題は筆者に残された課題である。また、NAFTAの新自由主義路線でふたたび国を北に向かって開いたメキシコにとって、エネケン絶頂期のオリガルキー支配の経験に学ぶことは少なくはない。        

(初谷譲次)