吉 村 宏 一
アメリカと D. H. ロレンスというタイトルでいざ書こうとしたところ、10年前ならまだしも昨今 D. H. ロレンスの名をご存じない方が結構あるのではないかと思い当たり、まず D. H. ロレンスとは何者なのか、その紹介から始めることにいたします。
D. H. ロレンスは、Lady Chatterley's Lover を1928年フィレンツェの小さな書店から出版しその大胆な性描写によって世界的に話題となったイギリスの作家です。日本でも1950年4月伊藤整が東京の小山書店より『チャタレイ夫人の恋人』を出版しましたが、同年9月刑法第175条の猥褻文書販売罪によって起訴され、36回の公判の後、有罪判決をもっていわゆる「チャタレイ裁判」は終わったのです。その裁判騒ぎのせいなのか今でも40代半ば以上の人々の中には、ロレンスに対してある種の色メガネで見る人たちもあるような気がいたします。しかし出版から70年も経た現在、「ヘアー」写真などを堂々と掲載している週刊誌が書店の店頭に並ぶ状況下で、特に若い人たちは『チャタレイ』がなぜあれほどの大きな社会問題になったのか不思議に思うかもしれません。しかしながら、「性」の問題にしろ「猥褻」の問題にしろ、それは時代時代によってその表現や受けとめ方は変化していくものであり、『チャタレイ』で提起された問題が古いとか時代遅れだなどと言えるものではないでしょう。ロレンス自身も述べているごとく、その受けとめ方には正にその時代の根底に流れている「命=性」に対する民族の態度が示されているのではないかと思われます。
ところで、こういったロレンスがアメリカとどのようなかかわりがあったのかという問題は、今から20数年前日本ロレンス協会でも「ロレンスとアメリカ」というテーマでシンポジウムが行われており、ロレンスを研究する人々の中では無視できない問題のひとつであります。言うまでもなく、それはロレンスがアメリカやメキシコについて実に多くのエッセイや短編、長編小説を書いているからです。ではロレンスがなぜアメリカまで出かけたのでしょうか。当時のイギリスが植民地を多く持っていたせいもあって、今の日本のごとく比較的人々は自由に海外に出かけましたし、特に第1次大戦後は作家たちも多く出かけました。しかしロレンスのように国を追われたごとく世界を放浪した作家はほとんどいないと言っていいでしょう。1922年イタリアに滞在していたロレンスのところにメイベル・ルーハンというアメリカの大金持ちの女性から招待状が舞い込み、ロレンス夫妻はセイロン、オーストラリアを経て、ニュー・メキシコのタオスに辿り着きます。ヨーロッパに途中2度戻りはしますが、1925年までアメリカやメキシコに住むことになります。
ロレンスはメキシコを舞台に The Plumed Serpent という長編小説を書きますが、この小説はもともとメキシコの伝説上の神の名を題名としてQuetzalcoatlと呼ばれていましたが、英米の読者にはとっつきにくいため前述の題名に変更されたということであります。筆者の思い過しかもしれませんが、おもしろいことにこの小説はイギリスの研究者にはほとんど評価されていませんが、アメリカの研究者にはおおむね好意的に受け入れられています。古くは、文学研究は個人的な嗜好や感性に基づいて行われていたのですが、今は客観的、科学的研究こそが文学研究だとする考えが大勢をを占めています。それにもかかわらず、同じ作品が研究者の出身国によって評価が異なるとすれば、科学的研究とは単に表層的な装いであって下層にある民族意識や価値意識を正当化するための単なる手段にすぎないのではないかと思われてなりません。
ではロレンスはアメリカやアメリカ人をどのように捉え、何が問題だと考えたのでしょうか。言うまでもなく彼が現実に見たのは第1次大戦と第2次大戦の狭間の時代のアメリカです。当時のアメリカ人について、例えば「アメリカよ、汝自身の声に耳を傾けよ」というエッセイで、たくさんのアメリカ人たちがイタリアにやってきてミラノ大聖堂の前で圧倒されたような面持ちで立ち尽くしている様を皮肉っぽく描きながらも、そんなアメリカ人に対して、伝統なんてものは「禿頭みたいなもので、歳月を経れば確実にやってくる」ものだから何をそんなに畏怖しているのだと、元気づけてもいます。そしてアメリカ人が今なすべきことは、アズテック族やインカ人たちが残していった「命の緒」をも
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う一度拾い上げることであり、「アメリカ大統領が顧みなくてはならないものはグラッドストンやクロンウェルではなく、アズテック族最後の首長モンテマス」であると、主張するのです。事実、ロレンスがアメリカに対して行った試みは「命の緒」を拾い上げその大切さを徹底して説くことであったと言っても過言ではないでしょう。彼にとっては、ニューヨークやサンフランシスコなどは本来のアメリカではありません。アメリカ大陸を征服したヨーロッパ系の人々は余所者であって、「命の緒」が引き継ぐべきは太古から住んでいる原住民であると彼は考えています。実際彼は、プエブロインディアンたちの土地を白人の支配下におさめようとするバーサム法に反対して「あるアメリカ人と一人のイギリス人」(1922年)というエッセイを『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』に発表しています。
やや要約的な言い方になりますが、アメリカに来てからも彼は、すべてを大脳の管理下に置き、「意識化」することを善であるとするヨーロッパ文明の人間中心主義、ヨーロッパ独善主義を徹底的に批判し続けたのです。その批判の代表的な一例として、『アメリカ古典文学研究』におけるメルヴィルの『白鯨』の解釈があります。強固な大脳意識と強烈な支配欲に取り憑かれた白い人種の代表、エイハブ船長は黒い人種、黄色い人種、赤色の人種などを引き連れて「白鯨」を追いかけますが、彼らの船ピークォド号は「白鯨」によって打ち砕かれるのです。この「白鯨」を、ロレンスは、われわれ人間の「深奥にある血の本質」であると言っています。「血」とは、万物の中を流れる「命」であると考えれば分かりやすいかもしれません。そして最後にこの小説はすべての「命」をあくまで破壊し尽くし自分たちの意志の下に組み敷こうとする白い人種の終焉を予言する物語だと結論づけています。
このようにすべてを「意識化」しデータ化すればそれで生きているものの実体が分かるはずだとする思い上がった現代科学文明の支配するアメリカに対して、ロレンスはアメリカ原住民たちの復権という形でアメリカの進むべき別の途を提示しようと苦闘したと、概括的には言えるかもしれません。D. LaChapelle の D. H. Lawrence: Future Primitive (1996年)などはロレンスの試みを引き継ごうとする仕事ではありますが、ロレンスの苦闘が20世紀のうちに実を結ぶとは思われません。彼のアメリカ批判が正しかったのかどうかが本当に分かるのは、21世紀、あるいはもっともっと先の世紀のことではないかという気がしてなりません。
(日本ロレンス協会顧問・同志社大学教授)