Essay

視覚言語

写真を視覚言語という人がいる。当を得た表現の一つに違いない。最近ある古書房で『ニューヨーク 街角の音たち』という本に出会った。ページをめくると、そこは音や音楽を通じてのニューヨークがその映像とともに私に襲いかかってくる。とても面白い構成の冊子であった。

1948年東京生まれの市川幸雄氏が文と写真の提供者。氏はプロカメラマンでレコードジャケットの製作にも参加している。1982年から85年までニューヨークに住んでいた人で、現在も精力的に仕事をこなしている。

私は彼より一歳年下で、戦後生まれの団塊の世代。十数年前から写真を趣味とするようになったので、この本も最初は写真集として手に取った。確かに写真集であるのだが、ニューヨークの臭いがプンプンと伝わってくる。写真に迫力がある。

ニューヨーク、マンハッタンの雑踏、雑音、そして様々なアーチストが奏でる音が、その映像(写真)とともに私に伝わってくるのである。写真を視覚言語とはよく言ったもので、小さな字で書いてある文章より、その絵(写真)の方が迫真性をともないながら私の身体を駆けぬけていったようだ。ちなみにこの本、昭和61年5月の発行で、出版社は音楽之友社。

さて、写真に関してというか、友人のすすめで最近一つの映画を観た。「地球交響曲−ガイアシンフォニー第三番」という名であった。日本人の写真家、星野道夫氏と宇宙物理学者、フリーマン・ダイソン氏、さらに外洋カヌー航海者、ナイノア・トンプソン氏の三氏にまつわる物語(ドキュメント)である。

見終わっての感想は感動の一語に尽きる。とくに写真家、星野道夫氏はロシア・カムチャッカで熊に襲われ死亡するのだが、人間が宇宙的スケールで動いている大自然の営みと調和して生きてゆくための様々な叡知を、未来の世代にどう伝えていくべきかに一生をささげた人である。

最初の市川氏のニューヨークにしろ、天空の音楽、オーロラの写真を撮りつづけた星野氏にしろ、プロの写真家ではあるが、何か一種使命感に裏打ちされた人達として私の胸を強く打ったのである。

もっとも人工的で人間的な街ニューヨーク、最も自然で神話的な土地アラスカ、被写体はそれぞれ対称的なものであれ、私には何か共通項としての響きがあるように思われてなかった。

そして、駄作を撮りつづけている私も、写真とは言葉であって、記録が芸術性を超える根源的なものであることに最近気付きだした次第である。地球は一つ。南北アメリカも、ユーラシアもアフリカもたった一つの星の中にある。歴史、文化、言語等の差異生を超えて、できるだけ早く地球市民としての自覚を持たねば、いよいよ地球環境の悪化を妨げない。

この天理大学アメリカス学会も、一つの言葉、一つの霊の発信源として今後の期待が望まれるところである。

 (杉岡久裕=全日写連奈良県本部委員)