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           文学の中のアメリカ生活誌(14)     

Dollars(ドル) 基軸通貨としての役を果たしているドルは Joachimstaler(聖ヨアヒムスの谷)の略語 thaler(谷)というドイツ語に由来している。ボヘミアがドイツ領であった1519年、Shlick伯爵は銀鉱のあるJoachimstalerで銀貨を鋳造させ、Joachimstalerという町の名で使用することを許可した。この銀貨の大きさと銀含有量がヨーロッパの標準通貨として普及したことから、ドイツ、デンマーク、スペインの銀貨は、まもなく t(h)alar [ta:ler]又はda(h)lar[da:ler]といわれるようになった。イギリスでは1581年までにそれをdollarと綴った。

 アメリカで広く活用された最初のドルは、オランダで用いられていたライオン像を入れた lion dollar(ライオン・ドル)であった。1620年頃にオランダ人によってニューアムステルダムを中心とするオランダ植民地に持ち込まれたこの貨幣は、その地にきていたヨーロッパの商人や船乗りのあいだでも好評だったので、1664年にイギリスがオランダ植民地を支配し、ニューアムステルダムをニューヨークと改名した以後もオランダから供給されつづけた。もちろん、オランダ・ドルだけがニューヨーク植民地に出現した正貨ではなかった。初期の頃は、イギリスの開拓者が本国から持ってきた英貨や植民地が鋳造した銀貨(例えば1652年から1682年かけてマサチューセッツで流通した北アメリカ最初の銀貨 pine tree shillings 「パイン・ツリー・シリング」)があった。ところが、イギリス政府は Charles二世の下で1695年以降、イギリスからの正貨輸出を法で禁じただけでなく、植民地の造幣局の閉鎖 (1684) を命じた。幸いにも、早くから始まっていた海運業のおかげで、植民地はオランダ・ドルの他、フランス金貨、スペイン銀貨を手に入れ、通用させた。これらの外国貨幣のなかで最も優位を占めるにいたったのは、広大な領土圏を背景としたスペイン貨幣だった。スペインの一般的な貨幣であるペソは、大きさと銀の含有量がドルと同じであったので、1684年以後アメリカ植民地ではスペイン・ドルあるいは単にドルと呼ばれようになった。また1750年代には中南米諸国のペソもドルの名称がつけられた。もっとも、植民地相互の関係が実際上独立国の関係であったことから、植民地人は取り引きや金銭の計算をポンド建てでひきつづき行っていた。18世紀の文人Benjamin Franklin の The Autobiography (1791) の中には植民地時代の奇妙な貨幣慣行が、合衆国では長くつづいていたことを思わせる一節がある。「持っている金といえば、オランダ・ドル1枚と銀貨で1シリングだけであった」。

 貨幣の分野においてイギリスからの独立を提案したのは、時の大統領 Thomas Jeffersonだ。1784年、彼は大陸会議議長に対する報告書の中で財務長官 Robert Morris と相談しながらドルとセントに基づく10進法の採用を提案した。1785年、大陸会議は「アメリカ合衆国の貨幣単位は1ドルであり」、ドルは10進法に基づいて分割されるという決議を行った。翌年には1ドルの100分の1がセントと名づけられた。しかし、これはほとんど実績はあがらなかった。外国貨幣、特にスペイン貨幣は、1857年に大陸会議がその流通を法令で禁止した後も、暫くの間流通しつづけた。ついでにしるすと、ドル記号の$はペソと関連を有している。2本の平行線はPという文字の略し方のひとつで、Sは複数形を示す。$はペソにも使われたが、この用法は今でもアルゼンチンでおこなわれている。

Ice(氷) アメリカでは早くから暖かい季節でも食べ物の鮮度を保つため、干す、塩漬けといった工夫がなされていた。だが、これらの方法では食べ物を自然に近い状態に保存しておくことはできなかった。最も望ましい方法は、食べ物を冷えた状態にしておくことであった。その役割を果たしたのがicehouse(氷室)である。植民地時代の裕福な農家は、地下貯蔵穴を作り、冬に近くの池から運んできた氷を利用して、食べ物を保存した。George Washington、Thomas Jefferson といった18世紀の大統領や一握りの金持ち連中は屋敷内に氷室を持っていて、夏になると氷で食べ物や飲み物を冷やしたり、クリームを固めてアイスクリームを作っていた。しかし、池に張った氷を手で割り、それを氷室まで運ぶことは手間のかかるものだったので、この頃の氷の価格は大変高かった。従って一般人の季節の食べ物の種類は限られていた。特に新鮮な肉を手に入れるのには限界があった。例えばロングアイランドでしばらく暮らしたイギリス人W. A. Cobbett はその著 A Yearユs Residence in the United States (1818) に「8月につぶした子羊を悪くならないようにするため、井戸の中に吊した」と書いているが、この考案した肉の保存法はうまくゆかなかったらしく、2日後には「もっと涼しい天候になるまで、もう新鮮な肉を食べないことに決めた」と記している。

 1803年に T. Moore というメリーランドの農夫が発明した木製の冷蔵庫はこの状況を大きく変えた。家具屋の息子であった彼は、Hepplewhite の Cabinet Maker and Upholsterユs Guide (1798) に書かれてあった冷水器にインスピレーションを得て、アメリカで最初のicebox(冷蔵庫、この言葉は1839年にはじめてアメリカ英語に入った)を考案した。その構造はHepplewhiteの冷水器と似ていた。つまりブリキの容器を大きな楕円形の木の樽に入れ、容器と樽のすき間に氷をつめ、これら全体を断熱材の代用になる兎の毛皮で包んだものであった。1803年1月27日に特許をとった彼は、この冷蔵庫を使えば、農民はいつでも乳製品や肉や他の腐敗しすい食品を市場に運ぶことができ、一般の消費者は、かなりの期間家庭で腐敗しやすい食べ物を貯蔵することが可能になるだろうと考えた。しかし、一般家庭への冷蔵庫の普及は遅々として進まなかった。前記のように、氷の価格が依然高かったからだ。

 1827年、ボストンで氷を扱っていた Frederic Tudor に雇われた N. Wyeth と E. Leslie は、つないだ馬の力で氷を切り取る鋤に似たアイスカッターを開発し、従来の氷の製造、運搬方法に変革を与えた。Tudorの店は繁盛し、1850年代には氷の販売を独占してしまった。作家 Henry David Thoreau はWalden (1850) の中で1846年の冬、Tudor の使用人(アイルランド人)がウオールデン湖の氷を大きい長方形に切り、それを馬で岸まで引きあげる様子を描いている。Leslieらが考案したアイスカッターは前記の冷蔵庫の大衆化を助け、1840年代までに家庭に氷を配達する人を意味するiceman(氷屋)という言葉を生みだした。氷屋の登場は市民の家の造りにも変化をもたらした。つまり、人々は留守でも氷を配達してもらえるように玄関先に小さなポーチを増築するようになった。氷の配達を希望する家は、あらかじめ通りから見える窓に必要量を書いた四角いカードを貼っておくと、氷屋がポーチに置かれてある木製冷蔵庫に氷を入れて行くのだ。この種の冷蔵箱が1920年代末、ゼネラル・エレクトリック社のスチール製の電気冷蔵庫が現われるまで使われた。

                             (新井正一郎)