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          文学の中のアメリカ生活(12)          

Advertisement(広告)「視線を向ける」の意味のラテン語からとったこの語は、Shakespeareの時代には通知の意味で使われていた。イギリス人がadVERTisementと発音したものを、アメリカの辞書編纂家Noah Websterは、1806年に出した彼の最初の辞書の中でadverTISEmentと言った。1850年代になると、adというadvertisement の短縮語が使われはじめた。アメリカにおける広告の始まりは、宿屋や居酒屋や商店などに読み書きのできない人々の興味をひきつける動機から作られた絵入り看板かコーヒーや紅茶の入荷を告げるチラシ、ポスターであった。アメリカの新聞で最初に小さな広告を載せたのは、1704 年4月創刊のBoston Newsletterで、広告のテーマは紛失物と不動産のことであった。だが、18世紀全般を通じてBoston Newsletterやその他の新聞の広告で、大きなシェアを占めたのは奴隷売買や逃亡奴隷・年期奉公人を探す広告であった。次はその一例。「3ポンドの謝礼。デイヴィス・マッカリンという名のアイルランドの男が逃亡した。身長5フィート8インチ、年齢19歳、薄い色の巻毛の、そばかす顔の男. . .この男を見つけてくださったら、上記の謝礼を差し上げます」。1741年にフィラデルフィアで刊行された最初の雑誌であるBenjamin FranklinのGeneral Magazine and Historical Chronicleも逃亡奴隷を探す小さな広告を載せている。

 19世紀の初め頃は各地の郵便局長が、広告主の広告原稿を集め、これを新聞社に送って手数料を得ていたが、その後まもなく専門の広告代理店が現われた。1841年、Volney Palmerは新聞社から広告用スペースを大量に安く買い入れ、広告主に切り売りするアメリカで最初の広告代理店をフィラデルフィアに開いた。当初、彼は自分の店をadvertising broker(広告斡旋屋)と称した。彼が店舗名を広告斡旋屋からadvertising agent(広告代理店)に変えたのは、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアに支店を開いた1850年になってからだ。彼の死後店舗は人手にわたるが、1869年にそれがN・W・エアー・アンド・サン社に合併されたため、現在では彼は世界有数の広告会社の創業者になっている。

 南北戦争の頃までは技術(印刷)上の問題と新聞社の方針のため、大きな、視覚に訴える新聞広告はまれであった。この厳格な広告用スペースを打破したのが、デパートだった。1879年、ワナメーカー・デパートは日刊紙に最初の全面広告を出した。企業の登録商標を保護する1881年の連邦商標法の可決は、広告メデイアと広告内容にさらに大きな影響を及ぼした。新聞、雑誌はもとより、ビルの屋上、市電の車体、サンドイッチマンなど、いたるところに商品の広告が眼についた。1923年、ラジオが初めてcommercial(コマーシャル、1923年の言葉)を流した。広告はもはや製品の特質を紹介するだけでなく、消費者がその製品を使用しないと、不安になってしまうことをますます強調するようになった。企業はその目的のために、広告代理店のアドバイスで心理学を応用したうまいうたい文句やイラストや写真入りで商品を紹介した。ある化粧品会社の広告は女性にこう語りかけた。「気をつけて、彼ががっかりするわよ」。効果は抜群。優れた広告は、商標に対する忠誠度(消費)を作りだすことで、普通なら結びつくはずのない人々に仲間意識を植え付け、彼等をアメリカ化することに一役かったのである。                 

Smallpox(天然痘)植民地時代から独立戦争までの間、アメリカで大流行した疫病の一つは天然痘である。smallpoxはpox(梅毒)と区別するために、16世紀にできた言葉だ。この病原菌がいつアメリカに侵入したかは不明だが、イギリスの入植者がニューイングランドに到着する前には、天然痘はインディアンの村々で猛威をふるっていた。ニューイングランドの初期植民地のタウンの多くは、この伝染病で破壊したインディアンの土地に作られた。例えば最初の入植地プリマスは4年前まではワンパノアグ族が住んでいた、付近に2本のきれいな川が流れ、雑草の茂ったトーモロコシ畑があるポートクセットというインディアン語の地名のところに定住して作られた。インディアンを壊滅した天然痘について、プリマス植民地の第2代知事の William Bradford は日記でこう記している。「その病気を遣わされたのは、神の意志にちがいない。宿命により1,000 人中950人が死に、死体は. . .地面で朽ちている」。マサチューセッツ湾植民地の初代知事John Winthropは、天然痘によるインディアンの全滅は神の摂理で、神が我々のために「場所を空けてくれた」のだと言い切った。

 1630年代になると、インディアンを減少させた天然痘の流行に入植者もまきこまれた。持ち込んだのは、多数のピューリタンをニューイングランドに運んできたイギリスの帆船だった。記録によると、ある帆船の入植者のうち、14人がアメリカへの途上天然痘のせいで死に、多くがその病に見舞われた。彼等が故国からもってきた天然痘は、すぐに植民地中に犠牲者を生み、1648年から1649年にかけて初めての大流行になった。植民地建設の裏側で人々を苦しめたこの病気と戦ったのが、1620年にメイフラワー号で渡航してきた牧師兼医師 Samuell Fuller だ。彼は1630年代のニューイングランドの著名な医師で、セイレムの知事John Endicottやマサチーセッツ湾植民地の知事Winthropからそれぞれの植民地の患者の診察を依頼されたほどだった。アメリカ最初の天然痘に関する書物は、1677年に刊行された牧師で医師であったThomas ThacherのA Brief Rule to Guide the Common People of New England how to order themselves and theirs in the Small Pocks, or Measlesだ。彼はこの中で患者に安静、適度な食事、大量の薬を飲まないことを勧めている。当時の正規の医師の大概の病気に対する処置が大量の血をぬいたり、下剤を飲ませたり、多くの医薬品(19世紀の作家・医師のOliver Wendell Holmesの言葉を借りると、殆ど海に投げ捨てたほうがよいものであった)を投与することだったことを考えると、彼の勧告はありがたいものであったにちがいない。

 アメリカ文学史の書物にかならず現われる清教徒の強力な牧師Cotton Matherも医師として勇敢な人であった。彼はロンドン王立協会の報告書で人痘接種という天然痘に対する効果的な予防法を読んでいたので、1711年にボストンで天然痘が大流行すると、名医のZabdiel Boylstonにこの予防法の採用を手紙で頼んだ。 BoylstonはMatherの手紙を受け取ってから2日後、6歳の息子と2人の黒人奴隷に実際の人の天然痘を接種した。ボストンの人々、特に正規の医師らはこれを知ると、Matherらに激しい非難を浴びせた。しかし、この騒ぎは1721年の天然痘の流行に関するボストンの行政委員の報告書で、人痘接種を受けた患者の死亡率がわずか2%であることが明らかにされると急速におさまった。独立戦争が勃発した時には、総司令官 George Washington は全兵士に予防接種を受けよと命じたのだ。

(新井正一郎)