Debate

『エノラ・ゲイ』論争にゆれる米史学界

2. 史学史的背景

 1995年5月18日の『エノラ・ゲイ』展示計画に関する米国上院公聴会でのこと。元サンフランシスコ市長で現上院議員のダイアン・ファインシュタインは、彼女がスタンフォード大学で歴史を専攻したとき以来の歴史学のあり方が変わってしまったと嘆いた。彼女が高名な歴史家トーマス・ベイリーに外交史を習ったときは歴史とは「事実」を述べることで、その解釈は読者に委ねられていた。それが今や、歴史とは事実に関する歴史家の「解釈」になっている、と言うのである。

 「アメリカ歴史家協会」の事務局長アーニタ・ジョーンズ博士は、『エノラ・ゲイ』論争のさなか、あるジャーナリストにインタビューを受けたが、展示計画書に現れた歴史認識に話が及んだときに、「だけど、あなた方歴史家は歴史を書き換えたりはしないのでしょう?」と質問されて当惑したという。

 もちろん、歴史家は歴史を書き換える。時代の思潮が替わったとき、新たな史料が発見されたとき、既存の史料の新しい意味を発見したとき、歴史を書き換え、新たな解釈を提示する努力をするのは歴史家の重要な仕事の一つである。

 『エノラ・ゲイ』論争の史学史的前提となったのは原爆論争である。この論争は、それに続く冷戦論争と並んで、米国史学史の中でも希にみる熱くて激しい論争である。『エノラ・ゲイ』論争の重要な争点とその激しさの原因を知るためには原爆論争の流れを把握しておく必要があるだろう。

 原爆論争史の理解に最善の文献は、筆者の私見ではバートン・バーンスタインの書いた次の論争史解題であろう。Barton Bernstein, メThe Atomic Bomb and American Foreign Policy, 1941-1945: An Historiograhical Controversy,モ Peace and Change, vol. II, no. 1, Spring 1974, 1-16. J・サミュエル・ウォーカーは、バーンスタイン論文に1980年代末迄の動きを含めて更新した。J. Samuel Walker, "The Decision to Use the Bomb: A Historiographical Update," Diplomatic History, vol. 14, no, 1, Winter 1990, 97-114. バーンスタインはさらに、『エノラ・ゲイ』展示論争を契機に主要な研究に焦点を絞りいっそう深い論争史分析を行っている。Barnstein, "Afterword: The Struggle over History: Defining the Hiroshima Narrative," in Philip Nobile, ed., Judgment at the Smithsonian (New York: Marlowe, 1995), 127-256.

 以下に、上記3点の文献、特に1974年のバーンスタイン論文を中心にして、原爆論争をごく簡単に振り返ってみる。

 米国における原爆論争史は原爆投下に関する米国政府の公式見解に一部の歴史家が反論したことから始まる。旧知のことであるが、原爆投下後トルーマン大統領は、投下の目的を、戦争の苦悶を短くし、何千人もの若いアメリカ人の命を救うためだったと発表した。

 その後、原爆投下に対する批判や疑問が一部のアメリカ人の間にくすぶっていたため、投下決定に深くかかわったものとして意志決定者を代表して、ヘンリー・スティムスン元陸軍長官が『ハーパーズ・マガジン』1947年2月号に見解を発表した。彼の論旨は以下の4点に集約できる。1)当時の政策決定者は原爆を正当な武器だとみなしていた。2)投下決定は慎重な考慮の後行われた。3)戦争を早期に終結させ、アメリカ人の死亡者を少数に押さえる方法として他の方法がなかった。4)当時の政策決定者に最大の関心事は原爆使用の是非ではなく、戦争の早期終結だった。

 この声明でも批判や疑問が絶えることはなかった。トルーマンやスティムスンの声明の正確さや正直さを疑う意見はほとんどなかったが、批判者は、政策決定者の判断基準を問題にした。勝利を急ぐあまり、道徳的、政治的マイナス面の考慮が欠けていたというのでる。その後、投下決定はソ連牽制の意味も少なからずあったという主張も行われるようになった。

 バーンスタインの言葉を借りると、原爆投下決定に対する見解の相違によって歴史家・評論家を分類するなら、正統学派(Orthodox School)、現実学派(Realist School)、修正学派(Revisionsit School)の3つがあるという。

正統学派

基本的に政府の公式見解を支持する立場で、代表的な歴史家はサミュエル・E・モリスンである。彼は1950年のアメリカ歴史協会総会の会長演説で、チャールズ・ビアードを批判した歴史家である。ビアードの An Economic Interpretation of the Constitution により、第一次大戦後の知識人が持っていたアメリカの制度に対する侮蔑感に彼ほど貢献した人物はヘンリー・メンケンを除けば他にいないとモリスンは述べた。また、ビアードの反戦の姿勢にも触れ、アメリカ人がもっとも大切にする独立、自由、統一、西部開拓は闘い取る覚悟がなければ、手に入らないと述べ、第2次世界大戦にアメリカ人が精神的に準備ができていなかった点に関して、歴史家に大きな責任があると述べた。

 原爆投下に関しては、投下がなかったら日本の和平推進派が優勢になることはなかっただろうとその妥当性を主張した。連合国が降伏条件を幾らか緩和すれば日本は降伏しただろうという批判に対しては、そういう譲歩は日本の軍部のつけ込むところとなり、かえって戦争を長引かせただろうという見解を持っていた。

 外交史家ハーバート・ファイスは、投下の目的を戦争の早期終結のためとしているが、政策決定者は同時にソ連牽制の副次的効果があることにも気づいていたと、ある程度批判者の見解を取り入れた見方をしている。

 正統学派でたぶんもっとも影響力が大きく、またユニークな擁護論を主張したのは、ポール・ファッセルである。ペンシルベニア大学英文学教授で著名な文芸批評家のファッセルは第2次世界大戦に従軍した兵士の体験から、原爆投下は日本侵攻の際の恐怖から救ってくれたという意味で僥倖だったと主張した。また戦闘を実際に体験した者は原爆論争について比較的寡黙であったと述べることにより、投下に批判的な知識人は、最悪の戦闘を体験していないと暗にたしなめている。

現実学派

政府公式見解および正統学派の主張を批判する人々は原爆投下の必要性はなかったと訴え、したがって投下は非人道的かつ非道道徳的で賢明でない決定だったと主張する。しかし、彼らは、政府が終戦後の国際政治への影響を考慮し原爆投下を決定したかどうかの評価で大きく2つに分かれる。現実学派は、政府が勝利を急ぐあまり道徳的・政治的マイナス面の評価を怠ったと述べ、終戦後の国際政治の与える影響を考慮しなかったという点でナイーブだったと主張する。このナイーブさ(政治的影響に関する無知)と非道特性が政府の戦時政策の双子の失策である。

 このような歴史認識をバーンスタインは「現実」学派と名づける。彼らは、政策決定者が権力の限界を認識し損ね、日本への無条件降伏にこだわって現実的な対応を怠り、勝利のみが平和を保証するわけでないことを理解し損ね、原爆投下の国際政治でのマイナス面を認識できなかったと主張するからである。簡単に言えば、手段(原爆)と結果(政治)の関係についての政府の分析は「現実的」ではなかったと言うわけである。

 この学派の代表的論客は、『ニューヨーク・タイムズ』の軍事アナリスト、ハンセン・ボールドウィンである。彼は、原爆投下に関する政府見解には嘘がないとそのまま受け入れ、その見解をナイーブであったと批判した。米国が日本の降伏条件をある程度緩和していたら、原爆投下なしに日本はもっと早く降伏していたであろうし、また条件の緩和がなくても日本はどのみち降伏したであろうから投下は必要なかったと述べたのである。

修正学派

これに対して、政策決定者の見解を信用せず、彼らの決定にはソ連牽制という隠された意図があったとし、その姿勢はナイーブでも、政治的配慮を欠いていたわけでもなく、むしろ戦後の国際政治を考慮して原爆使用に踏み切ったと主張するのが、修正学派である。政策決定者の意図は疑わずその政治的無知を批判する現実学派と違って、修正学派はその意図までも正面から厳しく批判する。

 この学派には数多くの研究者がいるが、紙幅の関係で代表的論客をひとりだけ挙げるとすると、ガール・アルパロビッツである。彼の Atomic Diplomacy: Hiroshima and Postdam (1965) は、「冷戦修正主義」を代表する著作で、米国の冷戦政策を批判する人々の間に大きな影響力を持っている。ジョン・トーランドに代表される真珠湾攻撃修正主義は、米国史学界では真剣な考慮の対象となっていないが、アルパロビッツの修正主義は、米国の歴史家が無視できない重みを持っている。(真珠湾修正主義によると、真珠湾攻撃は米国の挑発によるものでローズベルトをはじめとする一部の政府関係者は攻撃を事前に知っていてわざと攻撃させ、それを契機にアメリカ国民の間に参戦への世論を形成したということになっている。)

 彼の著書が出た1965年に行われた世論調査によると、原爆投下は間違っていたとする人が13%、正しかったとする人が72%、どちらとも決めかねる人が15%であった。政府の公式見解および正統学派の見解はアメリカ国民の間に確立していたと見てもよい。この確立した見解への彼の挑戦は当初、マスコミからは厳しく批判されたけれども、ベトナム戦争が引き起こした政府への不信感という追い風を受けて、政府の冷戦政策に危惧を抱く人々の間に大きな支持を集めた。1985年に『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された書評は、原爆投下の決定がソ連との対決というトルーマンの政策と直接結びついていたとするアルパロビッツの見解が、近年見つかった新たな証拠で裏づけられていると評価している。

 先に紹介したウォーカーは、1990年時点での歴史家・研究家の間の大まかな合意についてこう説明する。つまり、原爆はいろいろな動機で投下されたのであり、主要な動機の一つは、ソ連に対する警告としての政治的有用性であった。また原爆投下はたぶん、戦争の早期終結のためにも、また日本侵攻を回避するためにも必要ではなかったであろう。

 American Historical Review は、アルパロビッツが1995年に出した The Decision to Use the Atomic Bomb and the Architect of an American Myth についての書評を掲載した(Michael Kazin, December 1995, 1515-1516)。その中で、歴史認識の大きな変化はアルパロビッツの努力に寄るところとが大きいと評価した。

 『エノラ・ゲイ』展示計画書は、このような歴史学の研究成果を大いに取り入れ、確立した見解に対する意欲的な挑戦を試みた。実際に戦闘に参加した退役軍人の思い出に対する配慮も盛り込まれてはいたが、見学者の既成概念を揺さぶる意図があったことも否定できない。

 ところで、歴史家の研究成果というものは、最初歴史学学術誌などに掲載され、批評を受け、批評に耐えうる部分が一般社会に少しずつ浸透していき、ついには教科書などに掲載され一般常識の一部となっていくものである。これまで紹介した原爆投下に関する認識はどの段階にあるのだろうか。

 一言で言えば、歴史家の間のある程度の合意形成にもかかわらず、いまだに論争は続いている。しかも歴史家の認識と一般社会の認識にずれがあり、また『エノラ・ゲイ』展示計画を批判した人々の歴史認識は、「修正主義」歴史家の認識とは大きな隔たりがある。そのうえ、一般のアメリカ人の歴史理解は頼りないという印象を筆者は持っていう。それはアメリカの歴史教育の在り方とも関係している。したがって、一般社会のアメリカ人の歴史認識の理解も、『エノラ・ゲイ』論争の理解には重要である。それは、次回論じることにする。

(インディアナ大学にて=山倉明弘)