Scenery

文学の中のアメリカ生活誌(11)

Christmas(クリスマス) クリスマスは今日ではアメリカの各州で法定休日に指定されているが、初期のニューイングランドに入植した人々はクリスマスを異教徒の祝祭とみなし、軽蔑した。ニユーイングランドにおける最初の植民地(プリマス植民地)の第2代総督W. Braddfordが書いたOf Plymouth Plantation (1620ミ47)は、そのことを比較的よく表わしている資料だ。1621年12月21日にプリマスに到着した分離派の一団は、公民館や食料貯蔵室を建てるために、夜は乗ってきた母船「メイフラワー」号で寝ながら、その年のクリスマス(日曜)も休まず1カ月近く働いた。翌年の12月25日の朝、総督は人々を集め、早く集落を築くため前年通りクリスマスの日も働かせようとした。だが、プリマスに上陸した102名の船客にははっきりした宗教的動機によって国外移住を決心した「聖人」より「異教徒」と呼ばれた未改宗者が多かった。彼等は総督に異を唱え、この日を祭日にすることを求めた。総督は彼等にしばらくの休息を許可し「もう少し物わかりがよくなるまで大目に見てやろう」と言ってひとまず立ち去った。正午近くに戻ってきた総督は、彼等がまだ通りで玉遊びをしたり、騒ぎつづけているのを見つけると腹を立て、彼等のゲーム台をひっくりかえしてしまった。彼の眼には仕事を休んだり、遊び事をしたりしてクリスマスを祝うことは、開拓集落のサーバイバルに対する脅威と映ったのだ。この話は「彼が総督である間はこのようなことは公然と行われないようになった」という一節で終わっている。その後プリマス植民地の周辺に新しい植民地が次々とできるが、その一つ、1630年に作られたマサチューセッツ湾植民地の初代総督John Winthropもクリスマスのことは全く記していない。それどころか、マサチューセッツ総会議はクリスマスの祝祭を怠惰のしるしとみなし、1659年には全面的に禁止してしまった。そのためか1800年頃になるまでニューイングランドの殆どの地域でクリスマスは抑制された。19世紀初期のニューイングランドの住人E. C. Stantonという女性は、近頃のアメリカの大きな祝い事は独立記念日と感謝祭だと述べている。

 こうしたなか作家Washington Irvingはクリスマスに特別な意味を持たせようとした。The Sketch Book (1819-20)の中のChristmas Eveという作品はクリスマス・イブに若いBracebridgeが友人の実家(界隈で古い旧家)を訪れる話だ。この中に彼が案内された大広間で地主の親族と召使がお祭り騒ぎに興じているシーンがある。当主の老紳士はクリスマスの12日間は、「すべてのものが昔の慣例に従って行われるならば」、遊び事だけでなく、酒宴も大目に見ていた。つまり、クリスマスは将来地域(社会)の人々を結びつける重要な民衆の祝祭になるとIrvingは見てとっていた。The Sketch Bookの出版から10年近く経過すると、陽気に騒ぐだけであったニューヨークのクリスマスの12日間は、休日とみなされることがよくあった。裕福なニューヨーク人は休日を記念して贈り物をやりとりした。クリスマス前の数日はショッピング・シーズンとなった。Horatio SmithはFestivals, Games and Amusements (1831)の中で「クリスマスのシーズンになると、ニューヨークの多くの店は真夜中まで営業し、通りは老若男女の客でいっぱいだ」と記している。もっとも、ニューイングランド地方でクリスマスが法定休日に指定されるのは1856年である。

Hotel(ホテル) ホテルはアメリカ産の言葉である。フランス語のhotelは豪華な建造物のことだが、18世紀のアメリカでは、このフランス語はすでに宿泊所という意味で使われていた。アメリカの最初のホテルは1826年に完成したボルチモアのシテイー・ホテルである。3年後にはボストンに浴槽と水洗トイレを備えた豪華なトレモント・ホテルが出現した。作家Nataniel Hawthorne はよくこのホテルを利用した。彼は日記にこう記している。「1836年6月6日、トレモント・ホテルで友人と食事をした」。1850年代になるとアメリカのあちこちに高級ホテルが建ちはじめた。中でも有名なのは、ニューヨークのアスター・ハウスやシンシナテイーのバーネット・ハウスなどである。これらの豪華ホテルの建築は、やがてエレベーターやスプリング・ベットといった宿泊を快適にする設備の登場を促した。

 1852 年、ヴァーモントの農場育ちのElisha Graves Otisがケージの横に落下防止装置のついた乗客用エレベーターを発明するまでは、エレベーターは鉱山の荷物運搬専用であった。彼は1854年、ニューヨーク市で開催された水晶宮殿博覧会で、初めて自分が発明した自動安全装置の実演を公共の前で行った。彼はエレベーターに乗りこみ、それを30フィート上昇させて、綱を切った。聴衆はかたずをのんだが、エレベーターはわずかに下がっただけで止まった。これ以降、エレベーターは高層建造物に重要な役割を演じるようになった。1859年、ニューヨークのブロードウェイに完成した6階建ての五番街ホテルは、彼の安全装置付エレベーターを最初に使用したホテルであった。高層のホテルはエレベーターが取り付けられるまでは、上層階の部屋ほど宿泊代は安かった。客が重いスーツケースを持って長い階段を上り、下りすることを嫌ったからだ。Otisのエレベーターはこの状況を一変させた。上層階の部屋はオーティス・ エレベーター会社の宣伝文句を用いれば、「空気はきれいで、眺望はよく、騒音もない」ので、割り高な料金を設定しても一杯になった。作家O'HenryのTransients in Areadia (1908)にはMadame Beaumontが「ロタス」ホテルの最上階の自分の部屋までエレベーターで行くシーンがある。「エレベーターの入口でFarringtonは別れた。Madame Beaumontがこのエレベーターで上昇するのはこれが最後だった」。

 尤すべての人々がエレベーターに魅せられたわけでない。エレベーターを拒否する人々の間では落下事故、故障、ケージ内での気まずい人間関係などが話題になった。この新しい乗り物に恐怖を抱いた作家W.D.Howells は、Harper's Magazine (1883) でエレベーターに拒否反応を示す男をこう描いている。「彼はエレベーターを信用せず、階段を降りていった」。実際、初めの頃は大きな事故が多発した。1911 年のNew York Tribuneは、「それ以前の2年間に2,600名がエレベーターの事故で負傷または死亡した」と報じている。激動の短い生涯を終えた「ピープルズ・プリンセス」、Diana元皇太子妃が最後の夕食をとった超高級ホテル「リッツ」という名は、創設者であるスイス人、Cezar Ritzの名前をとったものだ。ritz(鼻であしらう)、ritzy(高級な)などの俗語は、彼がニューヨークに建てた「リッツ・カールトンホテル」に由来する。このホテルは、作家F.S. FitzgeraldのTales of the Jazz Age (1922)の中に次のような表現で出てくる。「私の父はリッツ・カールトンより大きなダイヤモンドを持っていた」。

(新井正一郎)