Debate

『エノラ・ゲイ』論争に揺れる米史学界

1.「修正主義」批判

 1994年から1995年にかけて米国では、広島への原爆投下の任務遂行に使用されたB29戦略爆撃機『エノラ・ゲイ』号の展示計画をめぐって論争の風が吹き荒れた。展示を計画したのは、スミソニアン協会の国立航空宇宙博物館である。

 もっとも、論争とは言っても展示計画批判の口火を切った空軍協会、その後批判に加わった全米在郷軍人会、それらの批判に呼応する形で展示計画を非難した米国議会、そして展示問題を報道した米国マスコミなどは、ごく一部の新聞を除いて、一致して展示計画に極めて批判的であった。国立航空宇宙博物館の擁護にまわったのは、論争の行方に危機感を抱いた米国の歴史家だけと言ってもいいような状況であったが、彼らの声に冷静に耳を傾ける論評はマスコミにほとんど現れず、彼らの声は、国を挙げての批判の中でかき消されたようであった。 

 『エノラ・ゲイ』展示論争に関する論評はすでに膨大な量になっていて、この問題のリサ−チを始めるとたちまち情報洪水に見舞われる。その中で、『エノラ・ゲイ』展示計画の何が批判されたか、どのように批判されたかを見極めることが重要である。

 『エノラ・ゲイ』展示論争には、米国史学史の観点から見ていくつか重要な問題があるが、本稿ではその一つ「修正主義」批判に的を絞って論じることにする。

 『エノラ・ゲイ』展示計画の目的は、1993年7月の展示計画書によれば、「原爆投下の決定、広島・長崎の人々の苦しみ、そして投下の長期的影響につながった政治的・軍事的要因に照らして、原爆投下の諸問題の冷静でバランスの取れた再検討を行うよう来場者に促すこと」であり、最新の研究成果に照らした再検討を行うことにより重要な公共サービスを行うことであった。

 批判勢力はこの「再検討」の姿勢を猛烈に非難した。従来の米国政府の公式見解および一般に受け入れられた解釈では、原爆投下は、頑強に抵抗を続ける日本を早期に降伏させ、日本本土侵攻作戦で予想される膨大な数の死傷者を救うためであったとされてきた。『エノラ・ゲイ』号搭乗者は大勢のアメリカ人兵士の命を救った英雄であり、『エノラ・ゲイ』号は神聖な存在であった。原爆投下決定の動機の一つとしてソビエト連邦への牽制をあげる最新の研究成果は、この神聖さへの冒涜であった。(原爆投下決定の動機に関する研究は膨大な数にのぼるが、それへの言及はまた別の論考を必要とするするのでここでは触れない。)

 この批判の中では、「反米的」、「バランスを欠いた」、「扇動的」、「政治的に正しい(いわゆるPC)」などの語彙が使われたが、中でも頻繁に用いられ、歴史家が無視しえない言葉として「修正主義」があった。従来の定説を覆し、『エノラ・ゲイ』の神聖さを冒涜するという意味である。この批判は国立航空宇宙博物館批判という形を取りながら同時に定説の再解釈を試みる歴史家をも非難していたのである。

 米国史学史の立場から見れば、新たに明らかになった資料あるいは時代の変化に触発されて、従来の定説を覆す再解釈を試みるのは真剣で有能な歴史家にとっては当たり前の行為である。American Historical Associationは、1982年にKutler and Katz, eds., The Promise of American History: Progress and Prospects(Baltimore, MD: The Johns Hopkins University Press)という論集を出している。1980年代初期までの米国史学界の成果が一望に見渡せる有用な論集である。インテレクチュアル・ヒストリー、政治史、比較史、南部史、移民史、科学史など米国史学の主要なサブフィールドを扱ったこの論集でも、研究史の展開の節目は、従来の定説の再解釈である。この再解釈の努力、つまり従来の解釈・定説の修正がなければ、史学は単なるデータの羅列に終わるであろう。

 ところが、米国史学史では「修正主義」という言葉では、上記のような使われ方はしていないのである。「修正主義」はサブフィールド毎に若干ニュアンスが違うが、おおむね否定的な意味あいで使われてきた。特に外交史というサブフィールドでは、完全に批判的な意味で使われている。そこでは、「修正主義」は、「修正」のための「修正」という意味あいである。

 いわゆる「修正主義」を批判された歴史家の嚆矢と言えば、チャールズ・ビアードがあげられるであろう。アメリカ史学史の大河を600ページを越える大著にまとめたピーター・ノービックによると、第一次世界大戦前に出版された研究の中で、ビアードのAn Economic Inter-pretation of the Constitution of the United States (1913)ほど批判の嵐を浴びたものはないという。名だたる歴史家が、ビアードの「物資主義的な憲法の解釈」と「経済決定論と階級闘争という社会主義的な理論」を批判した。(Peter Novick, That Noble Dream: The "Objectivity Question" and the American Historical Profession (Cambridge University Press, 1988), pp. 96-97.)

 しかし、ビアードの場合は「修正主義」という言葉は使われなかった。「修正主義」という言葉で批判された最初の主要な歴史家と言えば、やはりウイリアム・アプルトン・ウイリアムズを挙げなければならない。ノービックは彼を「アメリカ外交史の概念再構築において最も重要な歴史家」と評している(p. 446)。

 「修正主義」批判の対象となった最初の主要な歴史家が外交史家ウイリアムズだったというのは、『エノラ・ゲイ』論争との関連で興味深い。『エノラ・ゲイ』論争の史学史的前提となっているのは、原爆投下の正当性およびその後の冷戦に果たした役割をめぐる論争、すなわち米国外交史でももっとも熱い論争だからである。

 ここで、『エノラ・ゲイ』展示計画を批判した人々が「修正主義」という言葉をどのように使ったかを見てみよう。1994年8月、米国下院議員ビーター・ブルートと23人の同僚議員はスミソニアン協会ロバート・アダムズ会長あての書簡の中で、展示計画の「反米的偏見とバランスを欠いた展示企画」を非難した。その上で「アメリカの人々に、歴史的に偏狭な修正主義ではなく、『エノラ・ゲイ』とその任務の客観的な説明を提供するのが、あなたに課せられた責任だ」と述べた。

 同年9月には、ナンシー・カッセンバウム上院議員の提出した「上院の良識」決議案が採択された。決議は展示計画を「修正主義的で第2次世界大戦の退役軍人に対して侮辱的」と決めつけた。

 スミソニアン協会が1995年1月に展示の中止を発表した数カ月後に開催された『エノラ・ゲイ』展示計画に関する上院公聴会では、テッド・スティーブンズ上院議員が、ハーウィット国立航空宇宙博物館館長宛書簡の中で「『エノラ・ゲイ』展示が歴史の修正主義的見解につながることがないよう」促していたことを公表した。その上で彼は、「我々が今日ここに集まったのは、スミソニアン協会の物事の運び方のどこが悪かったのか、特に第2次世界大戦終結時に起こった出来事に関して、先の戦争を生き抜いた人々の記憶と相いれない見解にスミソニアン協会が到達したのはどういう理由なのかを検証するためである」と述べた。

 こうした言葉の使い方は議論をいたずらに混乱させ、冷静な議論をする事を難しくしたと私は考える。再解釈が現存する証拠に照らして妥当かどうかを判定する以前に修正すること自体を悪と決めつけるからである。

 「修正主義」批判はさらに歪曲して使用された。上院公聴会でスティーブンズ議員は戦後50年間に真実の浸食が常に行われてきたと述べ、「この種の浸食があるからこそ、ホロコースト博物館が重要なのである。同博物館は、歴史が書き直されないことを保証するために存在するのである」とつけ加えた。彼は、近年の「ユダヤ人のホロコーストはなかった」と主張する「ホロコースト修正主義」に言及しているのだが、「修正主義」という言葉の無責任な悪用もここに極まれり、である。

 『エノラ・ゲイ』論争では、歴史の再解釈が大きな問題となった。神聖視していたものを侮辱されたと感じた人々は、再解釈の行為を「修正主義」と言う言葉で非難したが、この言葉は感情的な言葉であったため冷静な議論をほとんど不可能にしてしまった。

(インディアナ大学にて=山倉明弘)