Letter from Merida

カスタ戦争国際会議

 7月28日午後6時、メリダ市のコントレラス劇場において、ユカタン・カスタ戦争150周年記念の「終わりなき戦いーー新たなる世紀にむかうクルソブ」と題された国際学会が開幕した。ユカタン人類学学会が主催し、ユカタン州政府、ユカタン自治大学、ユカタン文化協会、文部省、国立人類学歴史研究所および国立先住民庁が後援する大がかりな国際会議となった。メキシコ内外からおよそ200人が参加するなか、組織委員長のルイス・バルゲス・パソス博士、ユカタン州知事ビクトル・セルベラ・パチェコ氏の挨拶につづき、メキシコ大学院大学教授のモイセス・ゴンザレス・ナバロ博士の「ユカタンにおける戦争と平和」という開幕記念講演がおこなわれた。後援は「マヤの人々にとって、あるいはユカタンの人々にとって、カスタ戦争はどれほど心に刻まれているのだろうか」と問いかけた。「この国際会議はその確認作業という意義を持つだろう」と博士は言う。

 ここで、すこし「カスタ戦争」について説明しておきたい。カスタ戦争とは、1847年にユカタン半島において起こったマヤ系インディオの大反乱である。この反乱は8万人のインディオを巻き込み、最初の3年間だけで15万人もの死者をだした。1850年、政府軍の激しい反撃を受けて半島東部の密林地帯に逃げ込んだ、反乱指導者のひとりホセ・マリア・バレラは泉のそばに十字架が刻まれたマホガニーの期を発見した。その木で作った十字架はマヤのひとびとに「白人に対するわが子インディオの戦いの時がきた・・・余がなんじらの先頭にたって敵にたちむかおう」という託宣を伝えた。勝利を確信したインディオは、密林地帯にこの「語る十字架」を祀る教会を建設して、1901年まで反乱を続けた。かれらはクルソブ・マヤ(十字架のマヤ)と呼ばれ、現在でも独自の共同体社会を形成していると言われている。

 会議は8月1日までの5日間、ユカタン自治大学を会場に、8つの講演、それぞれ5人程度の研究者で組まれた10のシンポジウムおよび3つの近著合評会が行われた。メキシコ、米国、ドイツ、スイス、スペインおよび日本の30あまりの研究機関から70人近くの研究者が報告した。

 われわれのシンポジウムは「神に選ばれし民の伝統とその変容」と題し、メキシコ国立自治大学マヤ研究所の大越翼による「日本におけるクルソブ研究の動向」というイントロダクションではじまった。つづいて静岡大学の吉田栄人が「祭礼主催職は社会的義務か個人的信仰下」と題し、クルソブをアプリオリにひとつの強固なエスニック集団として捉える視点を相対化する必要性を訴えた。つづいて、筆者が「クルソブの生活スタイル」と題し、メキシコの先住民がもったであろう歴史的主体性をを読みとる作業の必要性を共同体と協調的に発展するチクル産業(外国資本)の例をあげて主張した。最後に、大阪経済大学の桜井三枝子が「サンタ・クルス祭に関する考察」と題し、クルソブの祭りにおける十字架のシンボリズムとその社会的機能について報告した。

 会議の初日に組まれたわれわれのシンポジウムは、大きく新聞に報じられ、会議がもつ国際性を印象づける役割を果たしたようだ。しかし、逆にいえば、すくなくともメソアメリカ地域において日本人研究者が国際会議でひとつのセッションを受け持つことがそれだけめずらしいことを意味しており、日本人研究者の今後ますます国際的交流の必要性を感じた。

 その他のシンポジウムの内容に細かく触れる余裕はないので、全般的な印象について記しておこう。この会議は単発的におこなわれているのではない。ユカタン人類学博物館においては「カスタ戦争の証言」という特別展示がおこなわれているし、反乱過程で政府との和平協定調印の舞台となったツカカブ村では3000人のマヤ農民が参加する集会が開かれた。反乱の拠点のひとつとなったテピチ村では、7月17日から3日間、マヤ語におけるカスタ戦争の口頭伝承を語る会が催された。また、市内の本屋にはカスタ戦争150周年を記念する出版物があふれている。しかし、いずれも外部世界であるわれわれの側が企画したこれらのイベントを、クルソブのひとびとはどのように受けとめているのだろうか。あるいは、そもそもクルソブとはだれのことなのか。外部世界にいる人間がある集団をひとつの名前で呼ぶ場合に、なんらかの意図が働いている危険性を感じる。そして、研究者と研究対象との関係という問題もあらためて突きつけられた気がする。

(初谷譲次)