Scenery

文学の中のアメリカ生活誌(9)

Cityscapes (都市景観)この言葉は1850 年代後半にできたアメリカ英語である。19 世紀の後半、都市の地価が上昇し、利益を生む空間に対する需要が高まると、産業界に相次いで現われた成金王らは、それまで見られなかった大きさのビルを望むようになった。彼等にとって幸運だったのは、この頃になると、エレベーターの発明と鋼鉄骨組みに門構形の壁を組み入れた新工法(カーテンウオール工法)の開発によって、skyscraper (摩天楼)という先端が空をscrape (ひっかく)ような高層ビルの建築が可能になったことだ。摩天楼という語は1794 年から記録されているが、その頃は背高のっぽ、野球の高いフライなどの意味だった。建物にはじめて用いられたのは、1883 年であった。1893年 5 月のDaily News 紙にはこうある。「30 階の建物と思うが、典型的な摩天楼には見えない」。

 最初の摩天楼はシカゴに1883 年から5 年にかけて造られた10階建てのホーム保険ビルである。しかし、その後鉄鋼で財をなした Carnegie, 石油で儲けたRockefeller, さらに鉄道界の大君Vanderbilt などが富の大部分を使ってニューヨークに大きな美しい垂直のビルを建てたため、ニューヨークが摩天楼の発展の地となった。初期摩天楼の典型は、安物雑貨店で百万長者になったFrank W. Woolworth が1913 年に造った58 階建てのウールワース・ビルである。これはエッフェル塔を除くと、1930 年までは世界一高いビルであった。この記録を破ったのが1930 年に竣工した77 階建てのクライラー・ビルだが、その1 年後には102 階建てのエンパイア・ステート・ビルデングが完成した。1931年 5 月1 日、New York Timesの記者は、その展望台から見下ろしたニューヨークの光景をこう報じた。「下の通りからは、鋼鉄と石の怪物のように見えたマンハッタンの高層ビルは、上から眺めるとあまり畏怖の念を起こさせる重要性を持っていない。. . . 1,000 フィート以上の高さからは、歩行者は蟻とほとんど異なるところがない」。摩天楼の出現によって都市の景観はすっかり変ったのだ。

 第3代大統領 T.Jefferson 以来、アメリカの多くの知識人は都市や機械文明が地上の楽園を作り上げるというアメリカ的パラダイムに反対していたが、1880 年以降超高層ビルが続々できてくると、彼等の批判は一層力強さを増した。作家Henry James はAmerican Scenery (1903) のなかで、林立する摩天楼が空を背景に描く輪郭を「針さしの横顔」とかたずけている。彼はまたニューヨークの冷酷さを、西部の地形のシミリーやメタファーによって効果的に描写している。即ち、高層ビルを「絶壁のような」というシミリーで表わし、街路を、両側にそそり立つ超高層ビルの間の深い谷間としてイメージし、「峡谷」と呼ぶ。作家Stephen Crane もIn the Broadway Cable Cars (1896) というスケッチで、ニューヨークの街路を「峡谷」と見なし、「ケーブル・カーはマンハッタン広場を通過し、大きな商店の高くそびえる壁がつくった峡谷に入っていく」と描いた。峡谷の下にあるのは谷を刻みながら蛇行する川なので、作家Dreiser はSister Carrie (1900)のなかで、都市の街路を行き来する人々を水にたとえ、こう書いた。「彼女(Carrie)は人波のなかには努力と興味の潮が流れているのを感じた」。Travels with Charley (1962) の著者John Steinbeck は、ハイウエイの車の往来を「車の洪水」と呼んだ。繰り返せば、彼等は近寄りがたい大自然の地形のイメージを用いて、人工的な都市の景観がいかに個人に矮小感を与えてしまうかを描いているのだ。

Nylon Stockings(ナイロン・ストッキング)1939年から 40 年にかけてニューヨークとサンフランシスコで万国博覧会が開かれた。会場に押し寄せた観客の注目を集めたのは、デユポン社が出品したナイロン・ストッキングであった。1930 年代の後半までアメリカは絹靴下の世界最大の生産国であった。だが、靴下の原糸となる絹の主な調達先であった日本との戦争が避けられなくなると、アメリカのストッキング産業は危機に陥った。絹靴下の最大手であったデユポン社の研究所では、科学者Wallace Garothers を中心に研究員らは、天然繊維の代替物の研究に日夜取り組んだ。1935 年、彼等は溶解したポリマーから糸状に引きのばせる薄い繊維ができることを発見した。これは絹の透明性と綿毛の強靭さを兼ね備えたものであった。彼等は製品化のために、さらに2 年間研究を重ね、1938 年にnylon(ナイロン)という商品を開発した。当初、発見者Wallace Garothersやデユポン社の名前に因んでWacara やDuparoohという商標名が候補にのぼったが、結局この合成繊維が絹ほどno run(ほつれない)繊維だったことがきっかけで、nylon という呼び名が生まれた。

 前記のように、デユポン社はこの新商品をニューヨークで開かれた万博に展示した。会社の展示会場では、MIss Chemistery (ミス・化学)というニックネームをつけられた美しく着飾った4 人の女性が、ナイロン製の薄いストッキングをよく見せるため、足を組んで座っていた。1940 年5 月、この商品はアメリカの主要都市で発売された。発売日には、大勢の人が早朝からロープで仕切った店の前につめかけた。ニューヨークでは初日だけで72,000 足売れた。絹ストッキングが1 足75 セントだったのに対し、ナイロン・ストッキングは1ドル 15 セントだったが、誰もがナイロン製を買った。日本の絹市場は完全に暴落したのだ。

 真珠湾攻撃の直後 、第32 代大統領F.D.Roosevelt がアメリカが民主主義のための兵器製造所になることを求めると、民間産業はこの要請に応えた。デユポン社も政府の統制を受け、利用できる全てのナイロンを使ってパラシュート、テント等の軍事品を生産した。女性たちも古いナイロン・ストッキングを飛行機のタイヤに再利用する廃品運動に協力した。彼等はしぶしぶ以前のたるみのでる絹靴下をはいたのだが、なかにはナイロン・ストッキングをはいているように見せるため、まゆ墨用の鉛筆でふくらはぎに縫い目をかくといった足化粧をした女性もいた。戦時中、オクラホマ州の60 人の若い女性に「この戦争でなくしてしまったため最も悲しく思うものは何か」と尋ねたところ、20 名が男性、40 名がナイロン・ストッキングと答えたという。当時の女性にはナイロン製はそれほど貴重品であった。

 戦争が終わった翌年(1946 年) に、デユポン社はストッキングの生産を再開した。商品が市場に出回ると、消費者は先を争って買い始め、発売わずか数 時間後に出荷数は400万足に達した。会社の再生を祝って女優Marie Wilson のストッキングをつけた巨大な足の複製(重さ2 トン)の除幕式がロサンゼルスで行われた。作家J.Updike のOf the Farm (1965) に、うたたねをしている妻Peggyの描写がある。そこにナイロン・ストッキングという表現が使われている。「灰色のナイロン靴下に長い足首を薄く隠された両足は、. 床の上に斜めに休んでいる」。                

(新井正一郎)