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文学の中のアメリカ生活誌(7)

grocery store(食料品店)アメリカの最初の食料品店は1859年にオープンしたGreat Atlantic and Pacific Tea Company である。社名から分かるように、この会社は茶の輸入業者であったが、1865年頃からコーヒー、ミルク、パン粉など他の食料品も積極的に手掛けだし、店舗数も1880年には100以上になった。第1次大戦(1914-18) が始まる頃、A&Pという社名 に変更したこの茶会社は国 中に2.000の店を展開していた。しかし、これらのチェーンストアは旧式のタイプの店で、注文を受けるたびに店員は店内の高い商品棚から品物を一々取ってこなければならなかった。このやり方に新風を吹き込んだのが、1916年にテネシー州メンフィスのC. Saunders が始めたPiggly-Wiggly's(ピグリー・ウイグリー店)であった。彼は店の名の由来を尋ねられた際、客の好奇心をそそるからだと答えたという。ピグリー・ウイグリー店の新しさは店の構造と販売方式にあった。Saundersは顧客が買物かごを持って、好きなものを買い、最後に代金を計算し、包装してもらうためにカウンターへ来るよう店内をレイアウトをした。つまり、対面販売をやめてセルフ・サーヴィス方式を導入したのだ。New York Times の記者はこの斬新なやり方にすっかり感激して「買物客は両側に棚が並んでいる通路を通り、その間に欲しいものを自由に選択し、外に出る時に代金を払うのだ」と報じた。この新しいスタイルは、客に便利なサービスを提供しようというよりはむしろ第1次大戦で男子店員が不足したために考えだされたものであったが、これが大当りした。1929年までにピグリー・ウイグリー店はアメリカ中に3,000店を出店していた。もっとも、ピグリー・ウイグリー店がピークを迎えた1930年代の後半でも、店舗網では6,000店を持つ旧式タイプのA&Pにおよばなかった。

 1923年頃からSaundersは株にのめりこんだため、ピグリー・ウイグリー店の経営権を失ってしまった。晩年の彼は 別の野心的な事業、つまりkeydoozle (万事鍵を廻してやるの意味)マーケットという自動食品店に着手したが、これもうまくゆかず、Saundersの名はその後人々の記憶から忘れ去られてしまった。作家S.Lewisの小説 Babbit (1922) には主人公バビット の夫人がこのピグリー・ウイグリー店について言及するシーンがある。「私は日に3回、年に365回、食事をオーダーしたり, 夫とロンとテッド の服や洗濯物の面倒をみたり、・・・お金を節約するために安い現金持ち帰り主義のピグリー・ウイグリー店へ行き、買物かごを家まで持ち帰るのにあきあきしましたわ」。

 一方A&Pは、それまでの旧式タイプのチェーン店を1930年に登場した別の新しい小売業態、つまりセルフ・サーヴィスと多様な商品と大量販売とを組み合わせたスーパーマーケットへと転換していった。1964 年にSears, Roeback and Co. (シアーズ・ローバック社)に抜かれるまで世界最大の小売業者であったA&Pの最初のスーパーマーケットは、1936年にミシガン州に出した psilany (シラニイ)店であった。次は作家S. Lewis のBethel Merriday (1940) の一節である。「彼女は母とA&Pへ行く途中であった。ベセルはいつものようにいたずらに騒ぎ回っていた」。

Post Office(郵便局)独立革命の頃になると、ひと通りできた植民地の町の要求や、発展していく貿易、商業上の必要から、道路事情も少し良くなり、宿屋の数も増えたので、手紙や新聞などの入った袋を積んだ駅馬車は、かなり遠方まで行けるようになった。1753年から1755年まで、郵政長官代理をした B. Franklyn は、郵便道路を一層整備し、郵便料金を軽減し、村の雑貨屋や宿屋に設置されていた郵便局を通じて新聞や信書を敏速に送るようにしようとした。当時の郵便局はまたワシントンやニューヨークから届いた情報を新聞にして発行するミニ新聞社を兼ねることを認められていた(現在でも『ワシントン・ポスト』とか『デイリー・メイル』など郵便に関する語が新聞の名称に使われているのはこのためだ)。1787年には制定された合衆国憲法によって、連邦議会は「郵便局と郵便道路を建設する」権限が与えられた。とはいえ、南北戦争(1861-1865)の頃までは近代的な郵便制度の輪郭はでき上がっていなかった。

 南北戦争の頃までは雑貨屋や宿屋の亭主を兼ねた郵便局長が地域選出の議員から料金と共に手紙を一括して受け取り、それを配達人に渡していた。そのため、配達人はいつも給与から10%〜20%に相当する額を政治活動費として差し引かれたし、地方選挙や州選挙の時は少なくとも5ドルの議員への献金を義務づけられた。また局長の中には受け取った配達人の給与を着服する者もいた。この頃は郵便料金は受け取る人が支払う制度だったので、郵便局長から給与をもらえない配達人は、手紙を郵便受けに入れられず、どうしても受け取る人を見つけなければならなかった。そのため彼等は毎朝6時半には配達に出ていった。勿論受け取り人は料金を払いたくなければ、局留めにするよう指示することができた。この制度は南北戦争の時代まで続いた。作家 N. Hawthorne の1843年3月31日付けの日記 に、そうした郵便事情の一端が述べられている箇所がある。「毎日私は雪とぬかるみの中を歩いて村まで行き、郵便局にちょっと立ち寄り、読書室で1時間過ごしてから家に戻る」。

1847年、郵政省は額面5セントと10セント切手を採用した。これによって料金は受け取り人でなく、差し出し人が払うようになった。だがこの代金は郵便局までの配達で、受け取り人の家までの配達料は含まれていなかったので、1850年代になっても人々は郵便局へ手紙を取りに行かなければならなかった。その後 Lincoln 政府の時代にできた無料配達制度(1863)によって、郵便物は局から宛先の家まで無料で配達されるようになった。当時、ニューヨークの郵便局にはこうした配達業務に携わる局員が700人ちかくいたという。尤このサーヴィスは人口1万人以上の都市の住人に限定されていた。作家F. Norris が The Octopus (1899)で人口2.3万の活気ある町ボネヴィルに住む「アニクター の手に電信会社の郵便配達の少年が・・・封筒を渡した」と描いてみせたように、住居への無料配達は都市の証であった。しかし1890年の合衆国の人口中、郵便物を家まで無料で届けてもらえたのは、4分1にもみたなかった。殆どの人は M. Twain の小説 Adventures of Huckleberry Finn (1884) に登場する村の老医師のように、郵便局へ手紙を取りに行かなければならなかった。都市で試みられた無料配達制度を農村にも適用するよう求めたのが当時全米に野火のように広がっていたグレンジ(全米農民組合)であった。その結果1896年には農村部にも無料郵便制度が確立され、農村の都市化に拍車をかける一因となったのだ。

(新井正一郎)