Scenery 文学の中のアメリカ生活誌(5)

Spanish (スペイン人)アメリカの外来語のなかではスペイン語の単語が一番多い。おそらく、合衆国南西部には1,347 万人というメキシコ人が、ニューヨーク市には273 万人のプエルトリコ人が、ニュー・オリンズやマイアミには105万人のキューバ人といったように合衆国全体でスペイン語を話すスペイン系アメリカ人が総人口の10%を占めているためだろう。そもそもアメリカとスペイン人との接触はスペイン人探検家と征服者であった。1513年、探検家 Ponce de Leon は不老長寿の泉の発見の夢をかけてフロリダ半島にやってきた。彼は伝説の泉を発見できなかったが、この地をスペイン植民地とする儀式を行った。その5年後の1518年、 Cortes によって中米のアステカ帝国を、1533年にはPizaroによってペルーのインカ帝国を軍事力で征服したスペインは、16世紀後半になるとメキシコ(現在のアリゾナ、ニューメキシコなど合衆国南西部)まで進出し、17世紀にはテキサスを、18世紀にはカリフォルニアを支配圏におさめた。ところが、彼等は北アメリカは不毛の地でしかないときめつけたため、これらの地域の植民意欲は除々に薄れ、1821 年にはメキシコを、1848 年にはカリフォルニアを失ってしまった。しかし、初期のスペイン人征服者から始まってメキシコやテキサスを征服したスペイン人、さらには現在のカストロ政権下のキューバから合法的、非合法的に入国したキューバ人にいたるまで、スペイン人はアメリカ英語(特に地理、動植物、金鉱、牧畜関係の言葉)に多くの語をもたらした。

 スペイン語に関心をもった19 世紀の文人に Walt Whitman がいる。彼は人類の融合を熱っぽく歌った民主主義を代弁する予言者詩人だと、一般に云われているが、実際は偉大なポーズの詩人であった。人間 Whitman の主張と詩人 Whitman のそれとの間には大きな食い違いがあるのだ。実際の彼は、ヨーロッパ系白人だけのアメリカを夢想していた。しかも彼の思い描いていた白人は、イギリス人、ドイツ人、イタリア人が主で、スペイン系アメリカ人は含まれなかった。例えば合衆国がメキシコ領土のニューメキシコとカリフォルニアを欲したことに端を発したメキシコ戦争(1846-1848)に際して、彼はメキシコ人を「無知な信義のない国民」と呼び、高慢なメキシコ人に思い知らせてやらなければならないと論じた。だが、詩的ヴィジョンの中では、彼は Americanos (アメリカ人)、Libertad(自由)、camerado(僚友)といったスペイン語を借り入れて人類の融合を謳っているのだ。

 1965年の新移民法も手伝い、今日のアメリカは、詩人・人間 Whitman が予言したものとは違い、国内100以上の都市にスペイン語専門ラジオ局、テレビ局が生まれているほどに「スペイン系アメリカ人社会」が膨らんでおり、今世紀末には黒人を抜いて全米最大のエスニック・グループに成長すると予想されている。だが、このヒスパニック系移民の増加・定住志向の高まりに伴い、さまざまな問題も目立つようになった。なかでも大きな問題は、上院議員であった故 S. I. Hayakawa がすでに10年程前(1987)に「合衆国を2ケ国併用社会、2文化社会に分裂させようとする真の動きが進んでいる」と憂慮した合衆国の「ラテンアメリカ化」である。保守的グループは連邦政府の法案の公用語を英語のみにする運動を展開し、支持を訴えているが、移民の同化に関する理論からいえば、人種の融合を主張する「るつぼ理論」に代わって民族性重視の「文化多元主義」が優勢になってきているのだ。

The Star-Spangled Banner(星条旗) イギリス人がアメリカに建設した初期の植民地、つまりジェイムズタウンやプリマスで使われた旗は白地に聖ジョージの赤い十字が描かれている英国連邦旗であった。だが、英国教会の中のカトリック的遺物の一掃を目指して大西洋を渡ってきたニューイングランドの清教徒はこの旗に不満だった。この赤い十字は彼等にはローマ法王がイギリスに残した偶像崇拝の遺物に映ったのだ。そのため、1700年頃からニューイングランドでは植民地別にいろいろな旗が生まれた。これらの旗の特徴は何らかの飾りとスローガンがあったことだ。たとえばサウスカロライナ植民地の旗はガラガラ蛇が描かれ、その絵の下に メDon't tread on me!モ (「踏むなよ」)と書かれてあった。

 1776年1月4日、G. Washington が率いる植民地軍がボストン近くの丘に掲げた旗は the Grand Union (グランド・ユニオン旗)と呼ばれた。これは13本の赤と白の縞地の左上隅に英国を表わす聖ジョージの赤い十字とスコットランドの聖アンドリューの白の斜め十字を組み合わせたものであった。英国旗と似た軍旗を掲げてアメリカ人が1年半の間英国人と戦ったのは、この時期のアメリカは公的にはまだ英国との結びつきを失っていなかったからだ。もちろん、植民地軍の中には英国風の軍旗の下に集まることをよしとしない人もいた。N. Hawthorne が短編 Endicott and the Red Cross で描いてみせたセイレム民兵隊の隊長 Endicott はまさにそのような人物だ。以下はその一節である。「エンジコットは剣を振り回して旗に突き刺し、それから左手で、赤い十字を軍旗から引き裂いてしまった」。

 1776年7月4日、アメリカ人は独立宣言を行うと、独自の旗を望むようになった。翌年 6月 14 日、フィラデルフィアでの第2回大陸会議(1774 年から13年間アメリカ政府の機能を果たした植民地連合の会議)は国旗のデザインをこう決議した。「国旗は赤と白の筋を交互に13本、青の布地に13の星を配したものにする」。大陸会議は星の配列に規定を設けなかったので、多様な星の配置ができたが、画家 Francis Hopkins がデザインした13 の星を円形にした旗が1782 年頃から人気を得、stars and stripes (星条旗)と呼ばれるようになった。この旗は作家 W. Irving の The Sketch Book (1819-20) の中に「いくつかの星と何本かの筋とが妙な組み合わせになっている旗」という表現で出てくる。大陸会議はまた新しい州が連邦に加わる度に、星と筋を加える決議案を可決した。1791年ヴァーモント州が、 1792年にケンタッキー州が加盟した時、国旗は15本の筋と15個の星を組み合わせたものであった。

 第二次米英戦争中、ボルチモアの弁護士 Francis Scott Key は英国軍の一斉砲撃を受けた後もマックヘンリー砦にこの15本の筋と15個の星の国旗が翻っているのを見て、その感動を封筒に書いた。メDefence of Fort MユHenryモ と題するこの詩は後 J. S. Smith が作ったメTo Anacreon in Heavenモ の曲に合わせて歌われた。これは大反響を起こし、詩の中の星条旗という言葉はアメリカ国旗の別名になった。「星条旗」という歌もできたが、アメリカの国歌に認定されるのは Key の死後117年たった1931年3月3日であった。第二次米英戦争後多くの州が連邦に編入したので、星と筋はどんどん増えていき、1818年には筋が18本になった。そのため、議会はこの年に筋をもとの13本に戻し、星だけを州の増加に伴って増やすことに定めた。

                                   (新井正一郎)